「マイアミの奇跡」はブラジル人にとっては屈辱だった

2014年 02月 11日

川口ゴールキーパー

1994年W杯で24年振りの優勝を果たしたブラジルは、1996年のアトランタオリンピックで国内初となるサッカーの金メダルを狙っていた。

ブラジルは日本、ハンガリー、ナイジェリアと同じグループDに入っていた。

セレソンには、94年W杯優勝時のメンバーのFWベベット、DFアウダイールに加え、MFリバウドが オーバーエイジ枠として召集されていた。さらにザガロ監督は、DFロベルト・カルロス、GKジーダ、FWロナウジーニョ、MFジュニーニョ・パウリスタも招集した。

いうまでもなく、ブラジルは本気モードでアトランタ五輪に挑んだ。

初戦の相手は日本代表。試合前日、日本で大学生だった自分は、友人達からスコアの予想を聞かれた。

「どっちを応援するの?」

「もちろんブラジルだよ。4-0で勝つよ。ブラジルが負けるなんてあり得ない」と大見得をきった。

試合ははじまり、ブラジル代表はいいペースで攻めていた。しかしその日はGK川口がファインセーブを連発していた。

それでも猛攻を繰り出していたブラジルのゴールは時間の問題だと思っていた後半27分、ペナルティエリアでDFアウダイールとGKジーダが衝突。転がったボールをMF伊東が ガラ空き状態のゴールに押し込んだ。日本1-0のまま試合は終了し、ブラジルはアトランタ五輪で黒星スタートとなった。

翌日、こんなに大学へ行きづらい日はなかった。通学途中で何て言おうかとずっと考えたが、何も思いつかなかった。ブラジルの勝利を確信していたことによるショックも大きく、友人たちからもからかわれた。サッカーは、必ずしも強いチームが勝つとは限らない。

今でもこの試合のゴールシーンがテレビで流れる度に、この日のことを思い出す。

この大会でブラジルは準決勝まで進んだが、4対3でナイジェリアに敗北。3位決定戦でポルトガルに勝利し、銅メダルで涙を飲んだ。

(写真/Getty Images)
1996年7月21日、マイアミ、オレンジボウル。ジュニーニョのシュートをブロックする川口能活

著者紹介

Masao Asano 浅野雅雄

Masao Asano 浅野雅雄
ブラジル出身。来日する前、16歳まで住んでいた地域がサンパウロFCのホームグラウンド近くだったので自然と“サンパウリーノ”(サンパウロFCファ ン)になる。日本で大学卒業後、一般企業に勤めたが母国の心を忘れず、ブラジルと関係のある企業へ転職。現在はアイピーシーワールドのシステム・エンジニア、雑誌「ヴィトリーニ」で最新テクノロジー記事を担当。
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