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ミウトン・ナシメントの共作者としても知られるフェルナンド・ブランチが他界

フェルナンド・ブランチ

ミウトン(ミルトン)・ナシメントとのコンビで「トラヴェシア」(1968)をはじめ数々の曲を生んだ事でも知られるミナスジェライス州の作詞家フェルナンド・ブランチが、6月12日(金)の夜21時40分にベロオリゾンチ市(以下、ベーアガー)でこの世を去った。68歳だった。

6月13日(土)の朝9時からベーアガーにある文化施設パラシオ・ダス・アルチスで告別式が行われ、150名以上の家族や友人、ファンたちが集った。「オ・グローボ」、「G1」(6月12日、13日づけ)、TVグローボの「ジョルナウ・ダ・グローボ」などが伝えている。

集まった人々は、ミウトンとフェルナンド・ブランチ共作した歌のひとつ「出会いとお別れ(エンコントロス・イ・デスペヂーダス)」を歌ってブランチに別れを告げた。

セレモニーは16時まで行われ、その後フェルナンド・ブランチはボンフィン墓地に埋葬された。

フェルナンド・ブランチは作家、ジャーナリストとしても活躍した。亡くなったのはクリニカス病院で、死因は肝臓移植による合併症とのこと。月曜から同病院に入院していた。

兄弟で音楽家のモアシール・ブランは入院時のフェルナンドの様子を語った。

「彼は自覚もしていたけれどとても楽天的でした。病院を出たらボリーニョ・ジ・フェイジョンを食べたいと話していました」(モアシール・ブラン)

1960年代からの付き合いで、フェルナンドと共に「カンサォン・ダ・アメリカ」など数多くの名曲を生んだミウトン・ナシメントも告別式と埋葬に立ち会った。

「彼がいなかったら私は素晴らしい人生を送ることはできなかった。フェルナンドは私がこの世で出会った最も素晴らしい人のひとり」(ミウトン・ナシメント)

12日にフェルナンドの死を知ったミウトンは動揺を隠せなかったという。一度は床につこうとしたが、日が明けて、5時に現在彼が住んでいるリオを発ち、ベーアガーへ向かった。ミウトンがパラシオ・ダス・アルチスに到着したのは14時15分ごろだったという。

「彼は、友情という、私の人生で最も大切なものの一部だった。そして大いなる遺産を残していった。私たちの人生で起きたことを共に共有してきた」(ミウトン・ナシメント)

フェルナンド・ホッシャ・ブランチは1946年10月9日、ミナスジェライス州南部のカウダス生まれ。父親は裁判官のモアシール・ブランチ、母親はヨランダ・ブランチ。5歳の時に同州のヂアマンチーナに引っ越した。ヂアマンチーナにあるベッコ・ド・モッタという横丁は、後に同名曲を書くインスピレーションになったという。10歳でベーアガーへ。

ミナスジェライス連邦大学(UFMG)の法科を卒業。雑誌「オ・クルゼイロ」の記者としても働いた。1960年代にミウトンと出会い、200以上の曲を作った。最初に書いた「トラヴェシア」(1967年)はミウトンが歌って大ヒットした。クルビ・ダ・エスキーナの仲間のひとりとしても知られる。

「カンサォン・ダ・アメリカ」、「ノス・バイリス・ダ・ヴィーダ」、「マリア、マリア」、「プラネッタ・ブルー」、「プロメッサス・ド・ソウ」、「オ・ヴェンデドール・ジ・ソーニョス」、そして「出会いとお別れ」などをミウトンと共作した。

(文/麻生雅人、写真/Reprodução/TV Globo)
写真は「ジョルナウ・ダ・グローボ」より。TVグローボのニュース番組はIPCTV(グローボ・インターナショナル)で放送中。視聴のお問い合わせは、080-3510-0676 日本語対応ダイヤルまで)

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