【コラム】日系人がブラジルで読んだマンガとは~ブラジルにおける日本マンガ受容史

2018年 11月 19日

ブラジル まんが

歳月がたち 1960年代の末、私は中学卒業を迎えるころだったが、そのころ新聞スタンドで新しいブラジルの雑誌が多数販売されるようになった。

当時はディズニーやバットマンとかスーパーマンなどアメリカ物が多く、ブラジルの主人公はマウリシオ・デ・ソウザの「モニカ」とかブラジルのホラーマンガが少しあっただけだった。

新しい雑誌には日本のマンガに似た物も有り、良く見ると日系人の作者が書いていた。これは日系人の南ケイジが1967 年に始めたエドレル(Edrel)出版社の雑誌で、この出版社が発行するタイトルも「サムライ」、「忍者」、「空手」といった日本のマンガからの影響を見て取れる物が多かった。

南ケイジ自身も手塚治虫先生の絵を真似てマンガを描き始めたらしいが、こうしてマンガを見て育った若い日系作家によってブラジルのマンガが始まったのだ。

日本のマンガを見た事がないブラジル人読者には全く新しいマンガとして熱狂的に受け入れられることとなり、エドレルの雑誌の発行部数も急増し、その結果多くの読者がブラジル風日本マンガを読んで育っていった。

現在、プロのマンガ家として活躍する作家の多くは、子供の頃エドレルのマンガを読んでおり、今でも当時のバックナンバーをコレクションとして持っている由だ。

ブラジルの不安定な経済を乗り越えながら生き残った出版社だったが、軍事政権による言論弾圧によって、大人用の雑
誌も発行していたエドレル出版社は毎日の様に警察に呼び出され、1975年には閉鎖となってしまった。

それから 3年後、エドレル出版社でマンガ家として活躍していた瀬戸クラウジオがパラナ州の小さな出版社グラフィパルの編集長となってエロチックマンガ雑誌「エロス」を発刊した。ブラジルの軍事政権も言論統制を緩め始めており、ある程度エロチックな物も発行出来るようになっていたのだ。

(次ページへつづく)

(写真・文/佐藤フランシスコ紀行、記事提供/「ブラジル特報」)
写真は南米最大の「MangaCon」(ブラジル漫画協会主催)