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ジョゼー・マウロ・ジ・ヴァスコンセロス

ジョゼー・マウロ・ジ・ヴァスコンセロス (José Mauro de Vasconcelos)

  • 生年月日 : 1920年2月26日
  • 名前 : ジョゼ・マウロ・デ・ヴァスコンセーロス
  • 名前2 : J・M・デ・ヴァスコンセーロス
  • 名前3 : J・M・デ・ヴァスコンセロス
国内外で広く知られているブラジル人作家のひとり。リオデジャネイロ市のバングーという地域で生まれるが、家庭の経済的な都合もあり、子どものころにリオグランジドノルチ州のナタウ市にある叔父の家にひきとられた。

9歳のころナタウのポテンジという地区の海岸で泳ぎを覚えたジョゼーは、いくつかの大会に出場して表彰もされた。水泳選手を夢見たこともあったが性格は気まぐれな面もあったという。

2年間医学を学んだ後、15歳でリオデジャネイロに戻り、生活のためにボクシングのトレーナー、彫刻のモデル、果物の荷役人、農家、映画俳優、ラジオ局での仕事など、実にさまざまな仕事に就いた。サンパウロではナイトクラブの給仕も務めた。

スペインで学ぶ奨学金を得たジョゼーはヨーロッパを見聞。帰国後、兄弟のヴィラ・ボアスと共にアラグアイア川流域を探検。地域で生活する先住民族と交流した。この経験は、金採掘人の生活を描いた処女作「バナナ・ブラヴァ(野生のバナナ)」(1942)を、ジョゼーに書かせるきっかけとなった。いくつかの大学の学科を専攻したがどれも修了はしなかったという。

ナタウの塩田を舞台にした「バーホ・ブランコ(白い土)」(1945)、「ロンジ・ダ・テーハ(遠き大地)」(1949)、「ヴァザンチ(湿原)」(1951)、「アララ・ヴェルメーリャ(赤いインコ)」(1953)、「アハイア・ジ・フォーゴ(エイ)」(1955)を次々と発表。1962年に発表した「ホジーニャ、ミーニャ・カノア(ホジーニャ、私のカヌー)」で広くしられるようになった。同書はパリのソルボンヌ大学でのポルトガル語の授業の教材にも選ばれた。

その後も「ドイダォン(狂人)」(1963)や、「オ・ガラニャォン・ダス・プライア(ビーチの種馬)」(1964)、「コラサォン・ジ・ヴィードロ(ガラスのハート)」(1964)、「コンフィッソンイス・ジ・フレイ・アボーブラ(修道士アボーブラの告白)」(1966)を発表。

そして1968年に発表した自伝的要素の色濃い小説「メウ・ペ・ジ・ラランジャ・リマ」を発表。国民的な愛読書となった本作は、ブラジルでこれまでに2度映画化されているほか(1970年と2012年)、3度もテレビドラマ化(1970年、1980年、1998年)されている。同書は日本でも1974年に角川文庫から「わんぱく天使」の邦題で日本語版が出版された(ただし英語訳からの訳出。訳者は岡本浜江)。2015年には、ポプラ社からポルトガル語の原書から訳出された。ポプラ社版の邦題は「僕のオレンジの木」。翻訳は永田翼と松本乃里子による共同訳。

その後も「フア・デスカウサ(裸足の道)」(1969)、「オ・パラシオ・ジャポネース(日本の城)」(1969)、「ファリーニャ・オルファン」(1970)、「シューヴァ・クリオーラ(クレオールの雨)」(1972)、「オ・ヴェレイロ・ジ・クリスタウ(ガラスのヨット)」(1973)、「ヴァーモス・アケッセール・オ・ソウ」(1974)などを執筆した。「メウ・ペ・ジ・ラランジャ・リマ」の続編「ヴァーモス・アケッセール・オ・ソウ」もまた、「続・わんぱく天使」の邦題で角川文庫より1979年に日本語版が出版されている。訳は南本史。

1984年7月、サンパウロで他界。

<参考> http://www.prefeitura.sp.gov.br/ http://www.dec.ufcg.edu.br/biografias/JosMVasc.html

ジョゼー・マウロ・ジ・ヴァスコンセロスの最新情報

ブラジルで1968年に発表されて以来、世界各国で広く愛され続けているジョゼ・マウロ・デ(ジ)・ヴァスコンセーロスの小説「メウ・ペ・ジ・ラランジャ・リマ」の日本語訳「ぼくのオレンジの木」がポプラ社より発売された。 11月10日(金)、駐日ブラジル大使館にて、訳者の永田翼・松本乃里子の両氏を迎えての記者会見が開催された。同書のファンでもあり「魔女の宅急便」の作者としても知られる児童文学作家の角野栄子さんも会場に駆けつけ、本書が日本で出版されたことへの喜びを語り、両訳者にエールを送った。...[続きを読む]