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W杯2014、日本が第二試合目を戦うナタウ(ナタール)とは<1>

ヘイスマーゴス要塞

12月25日。クリスマスはブラジルではナタウと呼ばれています。“メリークリスマス”は“フェリス・ナタウ”となります。ブラジルには、このナタウ(クリスマス)にちなんで街の名前がつけられた都市があります。2014年6月19日(木)に、一次リーグで日本にとっての2試合目、対ギリシャ戦が開催されるナタウ(ナタール)です。

シダーヂ・ド・ソウ(太陽の街)、カピタウ・ポチグア(ポチグアー族の都)とも呼ばれるナタウ(ナタール)は、ブラジル北東部にあるリオグランヂ・ド・ノルチ州の州都。市の南部にあるポンタ・ネグラなど、美しいビーチが数多くあるリゾート地として知られています。

夏季にあたる11月~3月ころ、カーニバルが終わるころまでと、7月に、町は最も賑わいます。ヴィア・コステイラ通り沿いには宿泊施設やコンベンションセンターが並び、コンベンションセンターでは国際会議や展覧会なども開催されます。

街の歴史は古く、まだブラジルが独立する前の1530年、ポルトガル王朝のドン・ジョアン3世の支配下にあった時代まで遡ります。現在リオグランヂ・ド・ノルチ州がある辺りの統治を任されたのはジョアン・ド・バーホとアイリス・ダ・クーニャでした。

最初のポルトガルの探検隊は、5年後に植民地を設立しようと計画しました。しかしそれより以前にこの辺りにはフランス人が上陸して、“ブラジルの木”(赤い染料のもととなった)の密輸のために上陸していたためフランス人との攻防が繰り広げられました。さらには、この土地に代々暮らす先住民族ポチグアラ(もしくはポチグアラ)族もフランス人に加勢したためポルトガルの入植は失敗しました。

それから62年後、1597年の12月25日、新たにポルトガルから、マスカリーニャス・ホーメンとジェロニモ・ヂ・アウブケルキが率いる遠征隊がやってきてフランス人を追い払い、この土地を植民地化しました。

12日後、ポルトガル人たちはポチグアラ族やフランス人の逆襲に備えて大きな要塞を作りました。この日、1月6日はヂア・ドス・サントス・ヘイス(・マゴス)(イエス・キリストの誕生に立ち会ったとされる東方の三賢者の日)だったことから、要塞はフォルタレーザ・ドス・ヘイス・マゴスと呼ばれました。砦を設計したのはガスパール・ヂ・サンペリス神父。この神父は聖母アプレゼンタサォン教会も設計しています。

砦が出来て、やがて街が作られました。何人かの歴史学者によると、当時は“賢者たちの街”と呼ばれていたそうですが、街が後にナタウと呼ばれるようになった由来には2説があるそうです。ひとつは艦隊がポテンギ湾に入った日がナタウ(クリスマス)の日だったことに由来するという説、いまひとつは、アウブケルキによって農場の境界が区分されたのが1599年の12月25日、ナタウ(クリスマス)だったことに由来する、という説です。

ところがナタウは、その後も運命に翻弄されます。1633年にはオランダ人が入植して、以降21年間、オランダがナタウを占領しました。この間、要塞はフォルチ・ヂ・ケンレン、ナタウ・ノヴァ・アムステルダンと呼ばれました。オランダ人が去った後ナタウは元に戻りました。その後100年はナタウの時は穏やかに過ぎてゆき、19世紀末には1万6000人の住民が暮らしていたそうです。

アメリカ合衆国やヨーロッパに地理的に近いナタウは、1922年からは進歩のペースを早めて行きました。そして第二次世界大戦の時、ブラジルは連合国側だったため、ナタウ(ナタール)には合衆国軍の基地が設置され、さらにナタウ(ナタール)は国際化して、街の名は世界中に知られるようになりました。

(文/麻生雅人、写真/Mário Monte、参考資料/リオグランヂドノルチ州政府ナタウ観光サイト)
写真はナタウ、ヘイス・マーゴス要塞。現在は観光名所となっている

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