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川崎駅にて。ウォークマンで聞いた、24年ぶりの優勝。

1994アメリカ合衆国大会

1990年に来日した自分は、ブラジルがW杯で優勝する姿を見ることができずにいた。

大学1年生だった1994年にはワールドカップ・アメリカ合衆国大会が開催され、深夜にもかかわらず、ブラジルの試合を観戦した。前回に書いた「マイアミの奇跡」の2年前のことだ。サッカー好きな同級生もブラジルの活躍をみて、「今年はブラジル調子いいね」とコメントしていたのを覚えている。

しかし24年間、優勝から遠ざかっていたブラジルのこと。応援はしていたけれど、まだ疑念の目で見ていた。

パヘイラ監督は国内であまり評判がよくなかった。ブラジルの攻撃的なサッカーとは思えない、守りに重点を置いたな布陣を組んだためである。

しかしブラジルはロシアに2対0、カメルーンに3対0、スウェーデンに1対1と勝ち進んで、予選通過は比較的楽にできた。

7月4日に決勝トーナメント第1戦で、ホスト国と対戦することになった。そして、アメリカの独立記念日でもあるこの日に行われた試合は、とてもドラマティックな展開となった。

前半にSBレオナルドがアメリカ選手に強烈な肘打ちをお見舞いして、一発退場。後半は10人となり苦しい戦いとなったブラジルだったが、何とかFWベベットのゴールで勝利した。退場したレオナルドは4試合の出場停止処分を受け、今大会から姿を消すこととなった。

冷や汗モノのアメリカ戦だったが、続くオランダ戦は更に苦しい展開となった。

オランダ戦ではブラジルがカナリア色ではなく、青いユニフォームで登場した。迷信深い人たちは気が気でなかったと思う。

試合が動き出したのは後半から。ロマーリオとベベットのゴールで2対0でリードしたブラジル。

しかし悲劇が起こった。ベルカンプとヴィンターがゴールして、試合を2×2の同点まで持ち込んだのだ。同点直後、一緒にテレビで観戦していた母親が興奮のあまり、「この試合は心臓に悪い、もう見ない方がいい」と部屋を出ていった。

その5分後にブラジルがフリーキックのチャンス。

蹴るのは退場処分を受けたレオナルドの代わりに入ったベテランのブランコ選手。

ブランコの強烈なシュートはロマーリオの背中を通り抜けて、ゴールに入った。

僕は母親にも聞こえるように「ゴーーーーーーーール」と叫びながら朗報を伝えた。

試合はそのまま終了し、ブラジルは次のステージへ進んだ。

準決勝は予選リーグで同点となった、スウェーデンとのリベンジ対決だった。混戦のなか、後半でロマーリオのゴールが入り、決勝戦へ。

決勝戦の相手はイタリア代表だった。とても長い試合だったので、よく覚えている。両チーム、ノーゴールで120分を終えて、PK戦へ突入した。

7月17日。その日、僕は大学の試験があり、もう家を出なければいけない時間になっていた。

PK戦は続いた。イタリアのバレージが外し、ブラジルのマルシオ・サントスも外すという展開の中で、僕はウォークマンのラジオを聴きながら川崎駅へ向かっていた。

そして、ロマーリオ、ブランコ、ドゥンガがPKを決めて、イタリアのマッサーロとロベルト・バッジオが、最後にPKを外した。

試合終了。24年振りにブラジルが優勝を果たした瞬間、川崎でラジオを聞いていた僕は、思わず、「GANHOU!(勝った!)」と叫んでしまった。周りの人から不思議な目で見られたのはいうまでもない。

嬉しかったけれど、優勝する姿を、テレビででも、この目で見ることはできなかった。その悔いは、今でも残っている。

(文/Masao Asano、写真/Getty Images)
写真は7月17日、パサディナ、ローズボウル。FIFAワールドカップトロフィーを手にするセレソン・ブラジレイラ

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著者紹介

浅野雅雄 Masao Asano ブラジル出身。来日する前、16歳まで住んでいた地域がサンパウロFCのホームグラウンド近くだったので自然と“サンパウリーノ”(サンパウロFCファ ン)になる。日本で大学卒業後、一般企業に勤めたが母国の心を忘れず、ブラジルと関係のある企業へ転職。現在はアイピーシーワールドのシステム・エンジニア、雑誌「ヴィトリーニ」で最新テクノロジー記事を担当。