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「カシャッサの日」の由来を生んだ、カシャッサの乱

カシャッサの日 カシャッサの乱

現在ではブラジルを代表する酒になるまでその地位を上げているカシャッサですが、1500年にブラジルが発見されて間もなくこの地で生まれ、砂糖産業と共に成長し、ブラジル全土に広まっていった歴史を持っています。

ブラジルの植民時代において、初期の産業である砂糖産業とカシャッサ産業は同時に発展してきました。1532年にマーチン・アフォンソ・デ・ソウザが、サトウキビの苗をサンパウロのサン・ヴィセンチ(São Vicente)に持ち込み、その数年後にはブラジルにおける最初のカシャッサが誕生したと言われています。サトウキビ農園は、ペルナンブーコ、バイーア、そしてリオデジャネイロを中心に広まり、カシャッサ蒸留所もこれらのエリアで発展していきました。

カシャッサは、移住者や原住民の生活を潤すものとなりましたが、宗主国であるポルトガルの王室にとっては歓迎できないものでした。

というのも、ポルトガルはブドウの皮から作る酒、バガセイラ(bagaceira)をブラジル国内で販売していたため、カシャッサの台頭はそのままバガセイラの利益を下げることになったからです。

そのため、ポルトガルは1635年にブラジルで初めてのカシャッサの消費を禁ずる法律を公布しています。ただし、この時は違反を取り締まるしくみが十分ではなかったため、カシャッサ経済は法律に関係なく発展をつづけました。

1647年にポルトガル資本の総合商業会社(a Companhia Geral do Comércio)が設立され、ブラジルで製造された製品は同社が独占的に取引することとなりました。その中にはカシャッサも含まれていました。しかし、その頃にはカシャッサ文化があまりにも浸透しすぎていたため、十分に取り締まることができず、これもあまり効果がありませんでした。その頃、カシャッサはポルトガルの植民地であるアンゴラにも密輸され、商人によって奴隷売買のための通貨としても利用されるほどでした。

ところが1654年、オランダが占領していたペルナンブーコから撤退すると、オランダ人はカリブ海のアンティル諸島で砂糖産業を始めたため、ブラジルの砂糖産業は急激に衰退しはじめました。サトウキビ農園の農場主たちは事業の収益性を維持するため、ブラジル北東部でのカシャッサの市場開拓をはじめます。

しかし農場主による市場開拓は、バガセイラを売りたいポルトガルの利益と相反したため、ポルトガルは1659年に再びカシャッサの流通禁止令を出しました。

前述したようにポルトガルはこれまでにも何度もカシャッサの製造や流通を禁止してきましたが、この時のポルトガルは今まで以上に本気でカシャッサの流通を抑制しようとしています。カシャッサ製造のための蒸留器の破壊まで指示しており、禁止令を守らない農場主は逮捕され、牢獄に入れられるか、アフリカ流刑の憂き目にあいました。

そして1660年、カシャッサの製造所が多くあったリオデジャネイロの知事は、カシャッサをはじめとする蒸留酒の製造に対する課税を行うことを決定しました。カシャッサの流通量は取締りができないほどの規模になっていたため、流通を一律に禁じるのではなく、課税をする方が望ましいと考えたためです。

しかし、これに反感を覚えた農場主達は政府の決定に対して一揆を画策します。

彼らはサンゴンサロとニテロイを出発し、リオデジャネイロ市内に来ると知事のトメ・コヘイア・デ・アウヴァレンガに圧力をかけました。

武器を持ち、リオの兵士たちからも支持を受けた暴徒たちは、有力者たちの家宅を荒らして回りました。彼らの要求は、カシャッサに対する課税の廃止と既に支払った税金の還付でした。

続いて革命者たちはアゴスチーニョ・バルバーロをリオデジャネイロの新しい知事に仕立て上げました。しかし、アゴスチーニョが弱腰でポルトガルにおもねるところが見られたことから、この新しい知事役は兄弟であり、農場主のリーダーであったジェロニモ・バルバーロに譲られました。ジェロニモは知事職につくとまず、元知事を支援していたイエズス会士を迫害しました。

リオデジャネイロ知事、トメ・コヘイアの甥であり、ブラジル南部の治安維持を任されていた将軍サルバドール・コヘイア・ヂ・サーは、サンパウロの出張から戻ると、リオデジャネイロで起きた事態を収拾すべく、当時の首都があったバイーアに軍隊の派遣を要請しました。

バイーアから軍隊が到着すると、驚いた農場主達はほとんど何の抵抗もなく鎮圧されました。リオデジャネイロの治安は回復し、反乱に加担した者は捕えられ、主犯であるジェロニモ・バルバーロは絞首刑に処せられ、首級は町に晒されることとなりました。

ところが1661年、ポルトガル王室はサルバドール・コヘイア・ヂ・サーの処置が過激であると批判し、反乱に加担した者を赦免するよう指示。カッシャッサの乱は「デモ」であったと見なすことになりました。

それに加え、ポルトガル王室はブラジルにおけるカシャッサの製造を認めることに方針転換しました。これが、カシャッサの乱(Revolta da Cachaça)と呼ばれる事件の起こった時代背景と概要です。

(文/唐木真吾、写真/Rafael Medeiros/Divulgação)
乱の後、ポルトガル王室がブラジルにおけるカシャッサの製造を認めたのが1661年9月13日とされており、後にこの日が「カシャッサの日」となった。写真はペルナンブッコ州ナザレー・ダ・マッタ、かつてサトウキビ農園だった建物

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著者紹介

1982年長野県生まれ。2005年に早稲田大学商学部を卒業後、監査法人に就職。2011年、社会人6年目に大学時代からの趣味であった海外一人旅が高じて、インドネシアのジョグジャカルタに4ヵ月間留学。帰国後、勤めていた監査法人を退職し、練馬のおんぼろ木造共同アパートを拠点にジャカルタでの就職活動を展開するも、予想外にもそれまで関係のなかったブラジルで働くことに。2012年からブラジル、ペルナンブーコ州ペトロリーナ在住。いまではすっかりブラジルの魅力にハマってしまいました。ブログ「ブラジル余話(http://tabatashingo.com/top/)」では、あまり日本人の居ないブラジル北東部のさらに内陸部からローカルな情報を発信しています。