“ブラジル版タイタニック号”、沈没から100年

2016年 03月 7日

ブラジル版タイタニック

グローボ系ニュースサイト「G1」が3月5日づけで伝えたところによると、同日、「ブラジル版タイタニック号海難事故」が発生からちょうど100年を迎えたという。

3月5日午前、事故発生地点に近いサンパウロ州北部の島、イーリャベラで100周年の式典が行われた。

タイタニック号の沈没から4年後の1916年3月5日、イーリャベラ沖合で沈没したのはスペイン船籍の「プリンシッピ・ダス・アストゥーリアス号」(以下「プリンシッピ号」)。

この事故では公式に発表されただけでも477人の犠牲者を出した。これはタイタニック号に次ぐ規模の人的被害だという。もちろんブラジル史上最悪の海難事故だ。

プリンシッピ号は1913年、スコットランドで製造された、全長150メートルの中型蒸気船。最大積載量は1万6千トンあり、製造当時は大西洋を横断できる船舶としてはスペインで最も豪華なものとされていた。

この豪華客船はスペイン、バルセロナからサンパウロ州サントスに向けて6回目、最後の航海に出た。

プリンシッピ号海難事故に関する資料を保存しているギリシャ人潜水調査員、イアニス・ミカイル・プラトン氏(68歳)によると、バルセロナから当客船に乗り込んだ乗客・乗員は登録されているだけで578名だったという。

「この事故は第一次世界大戦中に起こりました。時世を考慮すると、登録されている乗船者578名以外に戦争から逃れるため不法に出国しようと1000人近くが乗り込んでいたと思われます。お金がないので積み荷と一緒に船底に乗り込んでいたようです。彼らは事故の犠牲になっていても、乗船者名簿に載っていないので当然公式な死亡人数に入っていません。したがって、実際にこの事故では1500人近くが犠牲になっていると推定されます」(イアニス・ミカイル・プラトン氏)

また、イアニス氏の記録によると当時、大量の金属類が積み込まれていたことがわかっている。船内には12体のブロンズ像と4万ポンドの金に相当する額を費やしたモニュメントがあったとのことだ。

「この船舶は贅をつくしたもので、ペルシャ絨毯のような高級品であふれていました。当時は現在のように客船と貨物船が分かれておらず、プリンシッピ号には貨物だけで10トン積まれていました」(イアニス氏)

1916年のカーニバル真っ只中の3月5日、船舶はサントス港に向けて航行していた。当日は強い雨で視界が悪く、ポンタ・ダ・ピラブーラで船底に海底岩の一撃を受けてしまった。

「船体は3つに割れ、沈むまでに時間がかかりませんでした。サンパウロ州北部の海岸一帯に打ち上げられた遺体は砂浜に埋葬されました。イーリャベラのセハリア海岸で約600人、カステリャーノ海岸で約300人の遺体が埋められました」(イアニス氏)

イアニス氏はプリンシッピ号の事故が起こったポイントはもともと潮流が速く、船自体が起こす水流と水の動きが海水中に砂を巻き上げるため、水深が読みにくいのだという。

イアニス氏はこの17年間、この船舶の残骸を探すために潜水調査を行っている。

「海流が激しく入り混じるので沈んだ船の残骸に生物は住みかず、残骸は広い範囲に散らばっています。また、何年もかけて多くの探索者が金属類を運び出してしまいました。100年たって船は木っ端微塵状態です」(イアニス氏)

イーリャベラ・アグア・ブランカ地区の船舶博物館にはプリンシッピ号のレプリカと、海底から引き上げられた遺物を展示している。

事故から100年を迎え、イーリャベラと近隣のサン・セバスチアゥン市のカピタニア・ドス・ポルトス警察署、ポンタ・ダ・ピラブーラ市のブラジル海洋警備隊が犠牲者を悼む式典を行った。

海洋警備隊が用意した船舶とボートには花輪と慰霊の品々が載せられ、5日午前10時にサン・セバスチアゥンとイーリャベラのヴィラから出港した。

イアニス氏は57年ブラジルの北部海岸地域に住み、ブラジル沿岸の海難事故の研究をしている。この100年目の式典だけでなく、イアニス氏の調査結果をまとめた著作「イーリャベラ-プリンシッピ・ダス・アストゥーリアス号-二つの大陸に絡む謎」の出版もあり、この事故が今、注目を集めている。

イアニス氏の著作には、自身の調査結果と合わせて、事故から生還した乗務員の孫、イジドール・プレナフェッタ氏の談話が含まれているとのことだ。

(文/原田 侑、写真/Reprodução/Blog Jeannis Platon/via G1)