ブラジルへの移民流入、10年間で160%増
2016年 07月 13日「20世紀の半ば以降、世界中で同様の傾向が見られるようになっていますが、移動するのはヨーロッパ人ではなく、ラテンアメリカ、そしてアフリカから、と変わりました。その昔、ヨーロッパ人たちがそうであったように、ラテンアメリカ、アフリカからの移民の割合がそのまま求職者の割合になりました。でも決定的な違いは、資本主義の辺境地域の国々からやってきた彼らは、白人ではないのです。ブラジルにやってきてから遭遇する困難、到着した際の扱い等々、あらゆる点でヨーロッパ人とは異なっています」(ヴィレン氏)
この社会学者が言うには、ヨーロッパやアメリカ合衆国が不況に苦しみはじめ、移民たちが目指す土地ではなくなり始めたのだという。
「(当初移民たちにとって)ブラジルは選択肢としては2番目、もしくは単なる通過点でした。今ではブラジル社会の中にも移民の労働力に対する需要があります」(ヴィレン氏)
移民たちはブラジルの労働力の一翼を担っているだけでなく、彼らをめぐっては社会的問題もある。
「移民の大多数はやむを得ない理由で国を離れてやってきています。どこでもいいから、と思ってやってきたと見るべきではありません。彼らはブラジルを選んでやってくるのです。移民たちはここに至るまで多くの犠牲を払い、障害を乗り越え、トラウマを背負いながら、渡り鳥としてではなく、根付こうとしてブラジルにやってきたのです」(ヴィレン氏)
ボリビア人のフアン・クシカンキ氏(49歳)は、ブラジル社会にネットワークを作り、根付こう努めてきた一人だ。彼は1980年、カルナヴァルの時期に14歳でにブラジルにやってきた。たどり着いた翌日、巡回中の警察官に逮捕された。
「ボリビア人が何人かホットチョコレートを飲もうと言って私をバーに呼び出しました。彼らは酒を飲み、暴れ出し、警察が私たちを捕まえたのです」(クシカンキ氏)
クジカンキ氏は伝統音楽と舞踊のグループで働き、その後1年半、ひどい生活をしていたという。朝7時から夜10時まで縫製の工房で働いていた。
「厳しかったけど、生活のためには仕方がなかったんです。今、あれから36年たっても残念ながら当時の私と同じような生活をしている人が大勢います」(クシカンキ氏)
彼の人生が上向きだしたのは演劇について勉強を始めてからだった。その同氏は『オス・サチーロス・イ・コンパニーア・ノヴァ・ヂ・テアトロ』というグループと仕事をしていた。このグループの最新作はアンデス移民を題材とした特別作品だった。
演劇関係の仕事を見つけるのは最初は難しかったが、脇役をどんどん進んで探していった。
「私はインヂオですから、働ける場所もそう簡単には見つかりません。ですが、ブラジルの文化に潜り込むことで、私はプロフェッショナルになることができました」(クシカンキ氏)
3人のブラジル人の父でもあるクシカンキ氏は、アンデス文化とブラジルのアイマラ族の融合を象徴する存在だ。残念ながらブラジルの少数民族に対する偏見はまだ社会の中に根強く生きている。
「ブラジル社会の中で我々少数民族が認識されるためにやるべきことはまだまだあります。とはいえ、まずやれるとこから、ですね」(クシカンキ氏)
(文/原田 侑、写真/Jaelson Lucas/SMCS)
写真は2014年11月11日、パラナ州クリチーバ市。同市では移民労働者に雇用の門戸を開いている