【コラム】日系人がブラジルで読んだマンガとは~ブラジルにおける日本マンガ受容史

2018年 11月 19日

MANGACON ブラジル

テレビの番組やアメリカの映画では日本人がヒーローのものはなく、日本人が出てきても大半はつまらない役か馬鹿にされているような役回りだった。

とはいえ、素晴らしかったのは、ブラジルでは学校においては差別が無く、逆に日系人は頭が良いし真面目だとほめられる事が多かったことだ。

1960年から1970年代のマンガと言えば熱血物語とか一生懸命努力を重ねる主人公の姿が思い浮かぶ。具体的にいうと、ちばてつや先生の「あしたのジョー」がその代表だ。

そのころ、サンパウロ市の日本語学校で神尾先生が映写機を持ってきて8ミリ映画を見せてくれたことがあったが、確かぼやけた陸上競技のシーンだった。それが間違いなく私の東京オリンピックの思い出となっている。

当時ブラジルでは日本は全くの別世界だった。インターネットもビデオも無い時代で、日本の情報もごく限られていたため、子供だった私達はオリンピック自体の大きさと素晴らしさも全然知らず、サッカー以外のスポーツも見たことがなかったからだ。

当時私は小学一年生だったが、 日本のマンガを読むようになって、少しずつ日本の事が分かる様になり、大人になってから1964年の東京オリンピックはものすごいイベントであったと理解するようになった。第二次世界大戦で破壊された日
本が復興したと世界に知らせることになる大イベントであった。

あのころ新幹線も日本の絵本などで見たが、実際比較するものも無く、デザインがきれいだったという思い出しかない。ブラジルでの鉄道開業は1867年なので、1872年の日本よりも5年先行していたが、その後の鉄道開発は不完全で、技術的な進歩もなく、高速列車など企画すらなく、新幹線とは別世界だった。

東京オリンピックの4年前、1960年にプロレスの力道山がブラジルへ来て地元のプロレスラーたちと戦って勝利したと、父から後で聞かせてもらったが、その時、ブラジルに住んでいた青年アントニオ猪木を日本へ連れて行ったとの事。

私の父はサンパウロ市の中央市場でスイカの卸売りをしていたが、父によれば、猪木さんは同じ市場で荷物をトラックか
ら降ろすバイトをしていた由だ。確かに、猪木さんみたいに身体の大きな青年がいたら、何所でも目立っていただろう。

でも、子供に一番大きなインパクトを与えたのは日本のスーパーヒーロー、ナショナル・キッドのテレビ放送だった。

ブラジルの人気音楽番組の後で流された第1部「インカ族の来襲」は、今でも記憶が鮮明だ。宣伝も予告もなく突然現
れたスーパーヒーロー。ブラジルとは関係ないと分かっていながら、なぜ面白かったのだろうか。1964 年のことだっ
た。当時のブラジルのテレビには日本人は出てくることはなく、日本人のヒーローなど考えられなかったからだ。

そうした思い出が沢山あったので、2014年の訪日時、滞在していた金沢から東京へ行って江戸東京博物館の展示会「東京オリンピックと新幹線」を見ることにした。オリンピック当時の写真や関連資料が沢山展示されていたが、自分が想像していた1964年の日本とは少し違う印象を抱くことになった。

50年も経ってしまった今考えると、ブラジルでは日本は戦争に負けたのだと言い聞かされ、日系人は少し馬鹿にされていたからかもしれない。

それが東京オリンピック、新幹線とナショナル・キッドが出たことにより、日系人として誇りを持てる物がそろって来た、と思い、それらの出来事が当時の日系人の子供や若者に勇気を与えてくれたのだ。遠いブラジルにいても日本の勝利を祝って応援していた日系人が自信を回復したのも、新幹線やオリンピックのおかげ、そんなつながりを感じたのだ。

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(写真・文/佐藤フランシスコ紀行、記事提供/「ブラジル特報」)
写真は南米最大の「MangaCon」(ブラジル漫画協会主催)