【コラム:ブラジルとともに 4】  テント・木材小屋・七輪コンロ 

2026年 04月 29日
GS  06 メイン 農場作業小屋
ブラジル村農場予定地に手。初めて建てた作業小屋(撮影/末吉業幸)

今日は2026年4月20日の日曜日、昼飯はリングイッサと野菜サラダを食べた。今14:30、TVでSuperliga25/26女子バレー試合を見ながら投稿を書いている。

訪日出発まで後10日、スーツケースに入れるモノはほぼ詰め込み終えたが、あと数点が残っているので中に入れるモノを探している。

アボカド、ジャボチカーバの苗木の根づくりが順調に成長していると、沖縄ブラジル村の農園の管理を任せているアミーゴからの連絡が届いたので、苗を植える時期に訪日することにした。

2年ぶりのコラムの更新。2024年5月29日が最後で、以後投稿していない。サンパウロを拠点に生活する中、遺産相続のごたごたと沖縄でのブラジル村農場の造成が重なったことで、気持ちの余裕がなかったのもその理由だ。徐々に形になって来た沖縄ブラジル村農場だが、4年半前、久しぶりに訪日したときには、この場所はほとんどジャングルだったのだ。原野の開墾は重労働で、投稿のためのメモを取る気力と体力もなかったのでメモは残していないが、造成の記憶を書き留めておくことにした。

INS 山小屋が建てられる前
写真は山小屋を建てる前の山道(撮影/末吉業幸)

1回目の訪日時はパンデミックの頃だったためコロナ検査があり、成田空港近くのホテルで3日間一次隔離があり、そのあと、池袋ホテルでもう2週間隔離させられた。隔離費用は自己負担。さんざんイヤな思いや金銭負担もさせられたが、2回目の訪日では通常のフライトに戻り、安心して成田に着いたことを思い出す。

名護でアミーゴが経営するホテルに2泊3日宿泊し、スーツケースを預け、市内のなんでも屋で自転車を購入。食料品は前のカゴに乗せ、小物を入れたリックサックを背負い、いざホテルを出発したのが朝7時半、農場に着いたのが8時半頃。テントをはる場所を決め、雑草を刈り整地が終わったのが午後3時頃、山に泊まると思っていたが止めてホテルに戻ることにした。

翌日も早朝にホテルを出て、試行錯誤で何とかテントをはり、初めてのテント暮らしが始まった。

兄弟の三男がコーヒーを山に植えているので、毎週金曜日に来て農作業をしていた。農場の入り口付近の坂道にクサリに繋がれたアルミ板があり、“野犬に注意”と書かれてあった。弟が、野犬がいるから注意するようにと話してくれた。

弟は、まさか私が山にテントをはり、野宿するとは考えていなかったと思う。軽自動車で10時半頃3人で坂道を登りテント近くに着た時、伐採した木の根でこしらえたイスに座り、好きなパイプ煙草から煙が流れていくのを見ていた姿を見て、弟から「兄貴、山に泊まったのか」と、真青な顔で話しかけられた。

犬の習性はこちから攻撃しないかぎり、やたらにかみつくことはしない、それがわかっていたから泊まったのだと話したが、納得していないようだ。野犬はイノシシ狩りに使う訓練された犬だと後でわかり、安心した。2週間後テント暮らしから切り倒した木材で山小屋を建て、妻がつくったカヤをはり、地面にビニールを敷き山小屋の暮らしが始まる。

カレー
七輪コンロで作ったカレー(撮影/末吉業幸)

一番シンドイ思いをしたのは、七輪コンロでのメシつくり。なにしろ生まれて初めての野宿、七輪コンロを使ったこともいないし、見たこともなかったから…。着火剤で簡単に炭が燃えますとスーパーの店員が話していたが、炭に点火するまで一時間かかることもあった。

サトウキビ収穫用のナタは一週間で刃がボロボロになり、使いものにならないから市内ホームセンターに行き、本土で作られた伐伐に使うオノ、大木を伐り倒す丈夫な折り畳み式ノコギリ、雑草刈りに使う長いカマを買い、開墾を始めた。

GS ラジオノコギリランプ
作業道具。ラジオ、ノコギリ、ランプ(撮影/末吉業幸)

苗木を移植する場所の開墾が終わり定植が終わったのが訪日してから3ヵ月経った頃。定植前に穴を掘り、水で地ならし、地ならし後に山のワラビ腐葉土をいれ、その上にアボカド、ジャボチカバ、レイシの8本を試験定植した。約一ヵ月後、根が張り、苗木が根付き根元がしっかり、水分を吸収していることがわかった。

5歳ころからおやじの炭焼き、パイナップル栽培を手伝ったのは長男の私だけ、後の兄弟5人は山で農作業をしたことがないから、山に何があるか、里山が今どうなっているか、それがわかるのは私一人。それとおやじが亡くなるとき、”後を頼むと”言われているから、ジャングルになっていた里山を元の姿に戻し、ブラジルの果樹を移殖し、ブラジル農村農場をつくっている。

HP 30 伐彩 A
伐採が進むブラジル村農場予定地(撮影/末吉業幸)

おやじは元九大商社加商日本橋現トヨタ通商との合弁で1960年に名護にパイナップル工場を建て、雪印食品からSNOWブランドで東京・名古屋・大阪・福岡で販売していた。町の町会議員・日本復帰前琉球政府主席と親交をもち、米留学生フルブラライト仲間にはいり、沖縄を代表する3人のひとりに入る人柄、実業家政治家だったが、食道癌で45歳のとき、私が15歳中学2年のときに亡くなった。

山を元の里山に戻し、ファミリーの国際化・ブラジルと日本との親交の場にするためにブラジル村農場・Pousada Brasilの造成をしている。サンパウロから沖縄まで片道30時間のフライト、友人知人が大変だろうと声をかけてくれるが本人はむしろ、長い間保ち続けてきた夢、目指していたことが現実になったことで、生きる気迫が湧き出てきた。生きることを楽しんでいると言える。開墾が遅れたのは遺産相続の手続きに25年かかったことで、タイムリターンバックすることになった。

INSいりぐち自転車
ブラジル村農場入口に止めている自転車(撮影/末吉業幸)

上の写真はホテルから農場へ通う足に使っている自転車。ブラジルの運転免許証を日本で運転出来る免許に切り切り換えるには、豊見城市教習所に3週間通い講習を受け、実施試験に合格することで免許が取得出来るとのことで、暇とカネがいるから、車はあきらめ自転車にした。

(文/末吉業幸)

著者紹介

Nariyuki Sueyoshi 末吉業幸

Nariyuki Sueyoshi 末吉業幸
沖縄県名護市生まれの団塊世代。生まれ故郷で18年、東京で約10年暮らし、29歳の時に、新天地ブラジルへ東京JICA工業移住者として移住。2024年9月に47年を迎えます。妻は日系2世で同じ職業。

移住一年後に、昼間サラリーマンとして働く傍ら、夜はファリアリマ通りに家電販売修理店舗を設立。以後コンピユ―ターコンサルタント、本業のほかにも、セラード農業への個人投資、日系コロニアのボラティアも経験しました。ジョアン・フィゲレード大統領の補佐官(日系第一号の大統領補佐官)と知友になれたことで、公的交友の道へ歩む幸運に恵まれたとも言えます。

信条の第1は健康であること。第2は貧乏を寄せ付けない財産を持つこと。第3は良き隣人を持つこと。第4が仕事の成功。第5が心を豊かにする趣味をもつこと。シンプルに暮らし、自由に生きてきた、どこにでもある生き方。これからも同じ生き方をしていくつもり。
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