軍政下で異彩を放ったオルタナティブ紙『オ・パスキン』 知られざる地方版がデジタル化
2026年 06月 15日
政治的な開放が進み、クルザード計画(ハイパーインフレの抑制を目的とした経済安定化政策)が発表され、フォルクスワーゲンの「フスカ(ビートル)」の製造が終了し、チェルノブイリで放射能事故が起きた――。1986年、そんな時代背景の中で、サンパウロ州とリオグランデ・ド・スウ州で『オ・パスキン』の地域版が創刊された。
軍事独裁下のリオデジャネイロで、風刺的かつ批判的で、しばしば検閲の対象にもなった独自の編集方針を確立したオルタナティブ紙『オ・パスキン』は、短期間ながら、この2州の“方言”で語り始めた。
創刊から40年という歴史を記念し、地域版114号分がデジタル化され、国立図書館デジタルコレクションで一般公開された。すでに同館には、リオ版1,072号分が収蔵されている。
サンパウロ版とリオグランジ・ド・スウ版の構想が持ち上がった当時、『オ・パスキン』は1960〜70年代のような影響力をすでに失っていた。それでも、ブラジル・ジャーナリズムの象徴的存在である同紙への敬意を胸に、2人のジャーナリストがこのプロジェクトを主導した。
サンパウロでは、若きパウロ・マルクンがこの“冒険”(本人の表現)に乗り出し、マノエウ・カナバーロを伴い、ダンテ・マチウッシの支援を受けて取り組んだ。
リオグランジ・ド・スウでは、『オ・パスキン』が他地域へ展開するという噂を耳にするや否や、フラヴィオ・ブラガがリオデジャネイロ行きのバスに飛び乗った。目的はただ一つ──当時『オ・パスキン』の編集長を務めていた風刺画家ジャグアーを説得し、ガウーシャ版(リオグランジ・ド・スウ版)の創設を認めてもらうことだった。
フラヴィオは、人々が『オ・パスキン』の重要性を知ってはいても、それが、ある特定の世代にとってどれほど大きな影響を持っていたかまでは、伝わっていないと感じている。
彼は、ミロール・フェルナンデス、タルソ・ジ・カストロ、セルジオ・カブラウ、フイ・カストロ、パウロ・フランシスといった名だたる記者・コラムニストが手がけた記事やインタビュー、そしてジャグアー、エンフィウ、ジラウドらによる風刺画・カリカチュアが果たした“越境的”な役割を強調する。そこには、きわどい表現、政治風刺、カウンターカルチャーがふんだんに盛り込まれていた。
「しかも、それが軍事独裁の真っ只中だった」と、フラヴィオは指摘する。
<同じ“破天荒さ”で描かれた地域の話題>
地域版の特徴の一つは、その“ネタ”にあった。扱われるテーマは地域の話題が中心で、時折リオ本紙のインタビューや記事を引用することはあったものの、基本的にはローカル色が強かった。
南部版では、典型的な「南部のマッチョ気質」を風刺的に取り上げるなど、パスキンらしい皮肉の効いた論調を維持していたとフラヴィオは振り返る。こうした内容は、しばしば議論や対立を引き起こしたという。
一方、サンパウロ版は「独裁が終わった直後の政治的な熱気を映し出していた」とマルクンは語る。
リオデジャネイロで広がっていたカウンターカルチャー的な行動様式──たとえば性的自由や娯楽目的の薬物使用──は、両地域版でも取り上げられた。
政治風刺も『オ・パスキン』の成功を支えた要素の一つだが、地域版でもその矛先は健在だった。サンパウロ州知事や2度の市長を務めたパウロ・マルーフは、格好の標的となった。地域版の執筆陣の中に、マルーフを支持する者は一人もいなかった。
「みんなマルーフに反対だった。労働者党(PT)のエドゥアルド・スプリシーを支持する者もいれば、ブラジル民主運動党(PMDB)のオレステス・ケルシアを推す者もいた。さらには、当時ブラジル労働党(PTB)所属で、実業家として知られたアントニオ・エルミニオ・ジ・モライスを支持する者までいたんだ」とマルクンは語る。
地域版のもう一つの特徴は、地元の風刺画家やジャーナリストに光を当てた点だ。サンパウロ版では、マルクンがマランゴーニ、ヘジス、ラエルチ、ジャウ(ジャグアー)、ジョー・ソアレス、アウグスト・ヌネス、ガブリエウ・プリオリ、アウベルト・ジ二ス、フェルナンド・モライスらの名を挙げる。
「ちなみに、ジニスとモライスの2人は、支持する州知事候補をめぐって、パスキン・サンパウロ紙上で公開の場で大喧嘩をしたこともあった」と明かす。
リオグランデ・ド・スウ版では、フラヴィオが次のように記憶している。
「エドガール・ヴァスケス(現在も描き続けている)、サンチアゴ、ビエール(アウグスト・フランキ・ビエール)、カニーニ(ヘナート・ヴィニシウス・カニーニ)、ジャーナリストのヘヴェルベウ、そして他にも多くの仲間がいた。彼らなしに新聞は存在し得なかった」。
<独裁後の“生存戦略”>
財政的な持続性──これは過去も現在も、あらゆる出版物にとって決定的な要素だが、『オ・パスキン』の地域版がサンパウロとリオグランジ・ド・スウの両地域でわずか1年余りで終わりを迎えた背景にも、この問題が大きく影響していた。
南部版の編集部はポルト・アレグリ市に置かれ、当時は戦略的な提携や、すでに消滅した航空会社ヴァリギなど、大口スポンサーの支援によって運営が成り立っていた。
一方サンパウロ版では、広告主の数は多くなく、単号販売は一定の数字を保っていたものの、必要な水準には届かなかったとマルクンは語る。
「パスキンに広告を出すことに抵抗を感じる人がまだ多かった。過去の“あまりに自由奔放な”イメージが影響していた」とマルクンは分析する。
「状況はまったく違っていた。独裁時代、パスキンは広告収入ではなく、単号販売で成功した。20万部を売り上げたこともあり、当時としては驚異的な数字だった」と振り返る。
マルクンによれば、独裁が終わった後の時代において、“オルタナティブ紙”が果たすべき役割が不明確だったことも、地域版の存続を難しくした要因の一つだった。
「伝統的なメディアが、かつては禁じられていた議論や論争をすでに扱い始めていた。だから、我々が活動できる余地はごくわずかしか残っていなかったのです」と語る。
<デジタル化>
今週、第2地域連邦裁判所(TRF2)は、文化プロデューサーに対し、ルアネー法を通じて調達した81万2千レアルを連邦政府に返還するよう命じた判決を、全会一致で維持した。返還対象となったのは、『オ・パスキン』のデジタル化プロジェクトに充てられた資金である。
同プロデューサーはすでにリオデジャネイロ連邦裁判所の一審で有罪判決を受けていた。プロジェクト自体は文化省に承認され、ペトロブラスのスポンサーシップも得ていた。
問題が生じたのは会計報告の段階で、新聞の全アーカイブがインターネット上で無料公開されるという条件が履行されたことを証明できなかったためだ。
一方、国立図書館によるアーカイブのデジタル化は、保険代理人のフェルナンド・コエーリョ・ドス・サントスが無償で調整役を務めた。彼は『オ・パスキン』の熱心な愛読者であり、同紙を支えた多くのジャーナリストや風刺画家の友人でもある。
フェルナンドは2016年に退職した後、リオ版のオリジナルアーカイブのデジタル化に無償で取り組み、2019年には創刊50周年を記念したSESCでの展覧会も主導した。
その後、彼は国立図書館と協力し、サンパウロ版とリオグランジ・ド・スウ版のデジタル化にも着手した。資料の収集から技術的な作業まで、まさに“アリのような”地道な作業だったという。地域版の全発行物のうち、彼が見つけられなかった2号を除き、すべてがデジタル化された。
「現在、国立図書館デジタル内の『オ・パスキン』のサイトには、本紙のアーカイブが100%、地域版が98%そろっている。地域版は存在自体を覚えていない人も多く、非常に貴重な資料です」とフェルナンドは語る。
フェルナンドにとって、この作業は一種の“寄付”だったという。
「私は、この歴史を残すために自分の力を捧げた。そこには本当に多くの物語がある。国立図書館デジタルがこのアイデアを支持し、さらに発展させてくれたことをとても嬉しく思っている。時代を象徴し、ブラジルで最も重要な新聞の一つを、完全な形で収めた唯一のサイトなのだから」。
『オ・パスキン』がどのような新聞で、どのような意味を持っていたのか──本紙版も地域版も含めて知りたい人は、ブラジル国立図書館財団の電子サイト(bndigital)から閲覧できる(https://bndigital.bn.gov.br/dossies/o-pasquim/)。
(記事提供/Agência Brasil、構成/麻生雅人)



