70年代から活躍するシンガー・ソングライター、イウドンが新作を発表
2013年 11月 4日1975年に発表した「Na Rua, na Chuva, na Fazenda ナ・フア、ナ・シュヴァ、ナ・ファゼンダ」のヒットでも知られるシンガー・ソングライター、Hyldon イウドンがニュー・アルバム「Romances Urbanos(ホマンシス・ウルバノス)」を発表する。10月27日、「フォーリャ」(電子版)が報じた。
現在62歳。リオデジャネイロ市の西部Recreio dos Bandeirantesヘセイオ・ドス・バンデイランチスの通りを、大騒ぎされることもなく、青い鼻緒のハワイアナスを履いたイウドンが、ゆったりとした足取りで歩く。そんな書き出しで記事は始まっている。
イウドンの名を聞いて、すぐに思い当たる人はブラジルでも多くはないかもしれない。しかし「ナ・フア、ナ・シュヴァ、ナ・ファゼンダ」のサビを聞くだけで、多くの人が思い出すだろうと同紙はいう。
同曲が最初に発表されたのは1973年、ポリドールからのシングル盤だった。同時収録曲は「Meu Patuá メウ・パトゥア」。突然のヒットをレコード会社は予想もしておらず、宣伝用の写真すら用意していなかったという。
当時イウドンは22歳。自らがシンガーとしてデビューするまで、曲を作り、スタジオミュージシャンとして演奏をする傍ら、ポリグラムの社員としてディレクター、プロデューサーとしても働き、音楽ビジネスの世界を学んでいた。
ミュージシャンとしてはジョーベングアルダのバンド、 The Fevers ザ・フィーヴァーズやWilson Simonal ウィウソン・シモナウなどのセッションで演奏。 Luiz Melodia ルイス・メロヂア、 Odair José オダイール・ジョゼーの作品では制作責任者として関わった。
「ジョーベングアルダから学びました。“アイドル”や“セレブ”にはなりたくない、と。私はひとりの普通の人間として、音楽で表現をしたかったからです」(イウドン)
「音楽の世界で成功したくて、私は早い時期から音楽業界で働いて準備をしていました。でも、当時のレコード会社は海外文化の輸入に力を入れていましたが、私はその動向には興味がありませんでした。だから私は会社とは、録音するより喧嘩することの方が多かったですね」(イウドン)
「彼らは私にローリングストーンズの「アンジー」を録音させたがっていましたが、私は作曲家であって“歌手”ではない、と腹を立てたものです。ボスのアンドレ・ミダーニの部屋にいって彼のデスクを思いっきり叩いてやりたかった。そう、チン・マイアすらやらなかったことをね(笑)」(イウドン)
国民的人気歌手チン・マイアは、いったん怒り出すと手が付けられないほど爆発して、たびたび問題を起こしたことで知られている。イウドンはチン・マイアとは盟友といってもいい仲で、チンのヒット曲のひとつ「 I Don’t Know What To Do With Myself」(1971)は、イウドンとの共作曲だ。
イウドンとアンドレ・ミダーニの仲は、相当険悪だったようだ。73年に「ナ・フア、ナ・シュヴァ、ナ・ファゼンダ」がヒットしているにも関わらず、同曲を収録したイウドンのデビュー・アルバム「ナ・フア、ナ・シュヴァ、ナ・ファゼンダ」が発売されたのは2年後の1975年になってからだった。
「レコードは工場を出荷しては回収される、ということを3回ほど繰り返していました。アンドレ・ミダーニは発売したくなかったのでしょう」(イウドン)
それでもレコードは発売されるやヒットパレードで1位に輝いたが、すっかり疲れていたイウドンはニューヨークに向かった。
「15日間行くつもりだったのが、8か月も滞在してしまいました」(イウドン)
イウドンはニューヨーク滞在中は音楽を聴くことに専念。憧れのマーヴィン・ゲイやアル・グリーンのショウを観て、ブラジルに、アース・ウィンド&ファイアのレコードを持ち帰り、ブラジルの音楽家たちに紹介した。
「アースを皆に紹介しました。カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルも、随分、彼らの音楽のインスピレーションに役立てていました」(イウドン)
加えて冗談で「彼らはそのことでロイヤリティは払ってくれなかったけど、これからパウラ・ラヴィーニ(カエターノの元妻でプロデューサー)に払ってもらおうかな(笑)」とも。
イウドンの帰国後、ポリグラムは彼を、より広い人々にアピールできるイメージで売り出そうとしたという。
「ミーティングに行ったら、当時のマーケティングの責任者だったホベルト・メネスカウとパウロ・コエーリョは、私のことを、スニーカーを履いた爽やか野郎にし立てたかったようです。まるでエルトン・ジョンのような見世物にね。今だったらOKするだろうな、山のようにスニーカーをもらえるかもしれないからね(笑)。でも当時は、考えられなかった。誰も音楽のことなんて考えてくれなかったからです」(イウドン)
2作目のアルバム「Deus, a Natureza e a Música デウス、ア・ナトゥレーザ・イ・ア・ムジカ」は実験的なアプローチも見せて、5分以上に渡るロックオペラも収録された。
「レコード会社から出ていきたかったから、さよならのつもりで作った作品でした。レコードのカヴァーには私の写真すら載せませんでした。当時では考えられないことです」(イウドン)
晴れて(?)CBSに移籍したイウドンだったが、1977年に新天地で発表した次作「Nossa História de Amor ノッサ・イストリア・ヂ・アモール」もセールス面では恵まれなかった。ロマンチックな曲で始まるこのアルバムを、イウドンは気に入っていたという。
「突然、レコード会社内にいた私の友人がやってきて、このレコードがラジオで放送することを禁じられた、と教えてくれました。当時、同じことがファギネル(同世代に活躍したシンガー・ソングライター)にも起きていました」(イウドン)
「当時レコード会社のディレクターが、ホベルト・カルロスの曲以外でロマンチックな曲をすべて排除したようなのです。真実かどうかはわかりませんけれど」(イウドン)
1980年代にイウドンは「Sabor de Amor」(1980)、「Coração Urbano」(1987)、「Hyldon」(1989)と3枚のアルバムを発表しているが、セールス面での成功は経験していない。
「大ヒットを続けられなかった理由は、私自身のパーソナリティがそうさせたのです」(イウドン)
加えてイウドンは「他にも理由はあります。精神科医が足りなかったし、いい弁護士に出会えなかったし、いい会計士に出会えなかった。また、私の部屋の隣には Raul Seixas ハウウ・セイシャスが住んでいて、私はTim Maia チン・マイアととても仲が良かった。だからイカレたアドバイスしか得ることはできなかったんです(笑)」と冗談をいいながら当時を振り返った。
しかし、そんな経緯を経た後イウドンは、音楽マーケットが下火だった90年代に、プロデューサー、作曲家としてポップス界で大ヒット曲を生む。 TVグローボの学園バラエティ番組「Escolinha do Professor Raimundo(エスコリーニャ・ド・プロフェッソール・ハイムンド)」の登場人物の一人Seu Boneco(セウ・ボネコ)がキャラクター名義で発表したアルバム「A festa do Boneco ア・フェスタ・ド・ボネコ」(1991)だ。
「エスコリーニャ・ド・プロフェッソール・ハイムンド」は、2012年に他界した著名なコメディアン、シコ・アニージオが先生役を演じ、ネジの外れた生徒しかいない学級の様子を描いたドタバタ・バラエティ番組。90年代前半に人気を博した。セウ・ボネコは生徒の一人で、シコ・アニージオの息子でやはりコメディアンのルギ・ヂ・パウラが演じていた。
「Ê Ô Ê Ô」と歌う、まるでサッカー・チームの応援歌のような「O Carnaval da Galera ( Aí Eu Vou pra Galera ) オ・カルナヴァウ・ダ・ガレーラ(アイ・エウ・プラ・ガレーラ)」は大ヒットした。
「ある夜、寝ていた時私は、ヴァスコの応援団が歌う「Ê Ô Ê Ô、セウ・ボネコは怖いぜ!」という歌が聴きました。目が覚めたときまだ頭にあったので、それを曲のリフに使ったんです」(イウドン)
「少し後に、ヴァスコの応援団がこの歌をホマーリオに対して歌っていました。世界一かっこいいと思いました(笑)。実際にスタジアムに通っていなくても、叫び声はサッカーの世界に共通しているんだなと思いました」(イウドン)
その後もイウドンは、プロデューサー、ソングライターとして活動する傍ら、マイペースで「O Vendedor de Sonhos」(2003)、「Soul Brasileiro」(2009)、「Soul Brasileiro Edição Extra」(2012)と自身の作品も発表してきた。そして、10作目のアルバムが発売される。
新作「Romances Urbanos ホマンシス・ウルバノス」には、 Arnaldo Antunes アルナウド・アントゥニス、Zeca Baleiro ゼカ・バレイロ、Mano Brown マノ・ブラウンがゲストで参加しているという。
「いつもチン・マイアが、このようにレコードはあるべきと言っていた“metade mela-cueca, metade esquenta-suvaco”(※スラング過ぎて適切な和訳が困難。意味としては、本能的にノリノリといったところ)な作品になっています」(イウドン)
(文/麻生雅人 Massato Asso、写真/José Amarilio Jr)