優勝はしなかったけれど、ブラジル・セレソンが教えてくれたこと

2014年 02月 9日

1986メキシコ大会ジーコ

1982年スペイン大会の失敗から4年。1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会で、ブラジル代表に再びチャンスが訪れた。

監督は前大会同様、テレ・サンターナが指揮をとることとなった。

召集メンバーの中には、翌87年から日産自動車(現在の横浜Fマリノス)でプレイするオスカー、93年から柏レイソルでプレイするカレッカと、日本に馴染みのある選手の名もあった。黄金のカルテットを構成していた内の3人、ジーコ、ソクラテス、ファルカンも招集された。

その他も、ジュニオール、レオン、シーラス、ブランコ、アレマオ、カザ・グランデ、ミューレルと、ブラジル代表はスター選手揃いだった。

しかしブラジルは、初戦のスペインと2試合目のアルジェリア相手には、それぞれ1×0で勝ったものの、強豪国とは思えないサッカーを披露していた。3戦目の北アイルランド戦でようやくエンジンがかかり、3×0で快勝。決勝トーナメントのポーランド戦では4×0と、いい流れで勝ち進んでいった。
 
優勝が近くなったと国民が思う中、迎えたのがフランスとの準々決勝戦だった。

まずは三銃士と呼ばれたフランス代表のプラティニ、ディガナ、ジレスを相手に、カレッカが前半18分にゴールしてブラジルが先制。しかしフランスのプレティニに前半のうちに同点ゴールを決められ、試合はそのまま後半へ。
 
ミューレルの代わりに途中からジーコが出場は、さっそくチャンスを作る。ジーコが出したパスがもとで、ブランコがペナルティエリアで倒され、PKの判定となった。

キッカーはジーコ。

ブラジル国民の期待を背負って蹴ったボールは、しかし、フランスのGKに阻まれた。

悔しがるジーコをプラティニが慰める。その時、テレビの前で頭を抱える自分がいた。

試合は同点のままPK戦へ。死闘の結果、フランスが勝利し、ブラジルが敗退する形となった。

PK戦ではソクラテスとジュリオ・セーザルがミスを犯しているが、国民の脳裏に焼き付いていたのはジーコが外した後半のPKだった。そして悲しくもこれがジーコの最後のW杯となった。

敗退の責任者として、自分も当時はジーコを非難したが、後にロベルト・バッジョの「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」という言葉を知ってからは、バッジョの言う通りだと思うようになった。

(写真/Getty Images)
写真は1986年6月21日、メキシコ、グアダラハラのハリスコ・スタジアム。ブラジル対フランス戦、パトリック・バチストン(フランス)とジーコ

著者紹介

Masao Asano 浅野雅雄

Masao Asano 浅野雅雄
ブラジル出身。来日する前、16歳まで住んでいた地域がサンパウロFCのホームグラウンド近くだったので自然と“サンパウリーノ”(サンパウロFCファ ン)になる。日本で大学卒業後、一般企業に勤めたが母国の心を忘れず、ブラジルと関係のある企業へ転職。現在はアイピーシーワールドのシステム・エンジニア、雑誌「ヴィトリーニ」で最新テクノロジー記事を担当。
コラムの記事一覧へ