Entrevista ホジェル・メロ

2014年 07月 8日

ホジェル・メロ

現在、安曇野ちひろ美術館にて「ブラジルからやってきた! 色彩の画家 ホジェル・メロ展」が開催されている絵本画家・作家、イラストレイターのホジェル・メロさんは、1965年、ブラジルの首都ブラジリアに生まれた。

ホジェルさんの作品は、動物や植物など、自然にインスピレーションを受けた作品が多いが、これは生まれ育った環境にも関係しているという。

「私が生まれ育ったブラジリアはオスカー・ニーマイヤーの建築群がある官庁街も有名ですが、連邦直轄区とその周りのゴイアス州にも広大な森林地帯があります。ブラジルの中央に位置するこの辺りは、原始林ではありませんが、アマゾンに次いで緑が多い地域なんです。アマゾンの熱帯雨林とも、大西洋岸森林とも異なる種類の森林です」

そもそも首都ブラジリアは、1950年代に、当時まだ未開発だった内陸の高原に作られた計画都市。その周辺は雄大な自然に囲まれていて、自然保護区もある。

「自然を生かすことも、ブラジリアの建設計画に含まれていましたからね。だから、動物もたくさんいますよ。オンサ(ジャガー)、アララ(鳥の一種)、トゥッカーノ(鳥の一種)、カピバラ、タマンドア・バンデイラ(アリクイの一種)など。アリクイは街に現われることもあります。ゴイアスには、ワールドカップのマスコットにもなっているタトゥ・ボーラもいますよ。マットグロッソまで行けば最大のアルマジロ、タトゥ・カナストラがいます。だから、親しんで育ったこともあって、動物たちや草木や花は生活の一部でした」

一番最初に絵を学んだのは小学生のころ。課外授業で出会ったのだという。

「今もブラジリアにある、図書館の一部に付属している学校があるのですが、そこで最初に絵を学びました。一般の人たちが使う公共の場所にある学校です。ここではイラスト、文学、演劇、スポーツなどが学べます。ブラジリアはこうした文化的な環境が整っているため、建築や現代アートの道に進む人が少なくありません」

しかし、ホジェルさんが育ったのは軍事政権下。10代の頃は表現の自由も統制され、好きなアートも自由には学ぶことができなくなていたという。

「私の親戚や知人の中にも、軍事政権に捕まった人、行方が分からなくなった人がいます。検閲が厳しく、出版が差し止めになる本も相次ぎ、好きだった本のいくつかが読めなくなったことを覚えています。後に師事するジラウド(ジラルド)も左翼寄りの出版物を発行していたため、当時、逮捕されています。ジラウドが人々に訴えたかったのは、“自分で考えること”でした。政府はそれを禁じたわけですが」

リオデジャネイロ州立大学の工業デザイン学科卒業後、「メニーノ・マルキーニョ(マルキーニョ坊や)」シリーズなどで知られる、ブラジルを代表するイラストレイター、絵本作家のひとり、ジラウドの工房で働いていた。

「ジラウドの工房ザッピンで仕事をしたのは大学を卒業するころのことです。素晴らしい経験でした。ブラジルの一番最初の工業デザインの専門コースを卒業したことをジラウドも評価してくれたんです。ジラウドは、この工房はキッチンのような場所だと言っていました。紙の上で学ぶだけでなく、実際にキッチンに立って素材を選んでものを創り上げていくことが大事なことだというわけです」

「『マルキーニョ坊や』は、まさにジラウドらしい作品です。マルキーニョは、はちゃめちゃだけどみんなに愛されていますからね(笑)。自由な発想を持っていて彼自身の考えにもとづいて常に行動します。時には騒動も引き起こしますが、とても優しい子どもでもあります。このキャラクターは、とてもブラジル人的だと思います。ブラジル人は、本気で怒っていたとしても、誰かがにっこりすると、そのとたんに心が和らいで怒っていることを忘れてしまいます(笑)」

ホジェルさんは、日本に来てみて、ブラジル人と日本人には異なる点も多いけれど共通する点もとても多い気がするという。

「優しいという点では日本のみなさんはとても優しいですね。ブラジル人と似ていると思います」(次ページにつづく)

(写真・文/麻生雅人)
写真は、安曇野ちひろ美術館の中庭。来日したホジェルさんが制作したインスタレーション作品とともに