ブラジル、ハンセン病患者隔離政策の補償年金支給開始から7年

2014年 09月 22日

ハンセン病 補償

(2013年1月時点)、ハンセン病患者の隔離政策は政府によって1940年代に本格的に開始されて40年以上続き、多くのブラジル人の生活に傷跡を残した。

1969年、当時9歳で隔離された居住区に収容されたヴァウデノーラ・ホドリゲスさんは、偏見が怖くて、今なお施設を出られないという。

「私を含める約500人は以前、1978年、現在マナウスの一地域となった、アントニオ・アレイショの居住区にいました」と、現在、ハンセン病による被害者の社会復帰運動(MORHAN)マナウス支部のコーディネーターを務めるヴァウデノーラさんはいう。

彼女は子どもの頃、病気が正式に診断される以前から偏見を受けていたと回想する。

「当時、私の母親はコミュニティの中でただ一人の教師でしたが、娘である私が当時の言い方で”レプラ”にかかっているという話が広まり、親たちは生徒を学校から出してしまいました」(ヴァウデノーラさん)

最終的にハンセン病であると診断が下され、彼女は両親から引き離されてコロニーに収容された。

「私は病に侵され、身体中が腫れてシミができていました。コロニーまで行くのにボートを使わなければ行けなかったのですが、ボート漕ぎの人が私の乗船を拒んだため、父がボートを調達して、漕いでくれました。コロニーまでの道のりは3日もかかりましたが、食糧を買うときも岸にボートをつけることを許されず、30メートルのロープをで食料が岸からボートに運ばれました」(ヴァウデノーラさん)

9歳で隔離されてしまったヴァウデノーラさんは、自分がどのように生まれ育ったか自身のルーツを知りたいと考えたという。コロニーを出ようとしたが、差別を受けていると感じて居心地はよくなかったという。ヴァウデノーラさんはコロニーの中で助産婦の仕事を覚えた。

「毎日、なんらかの差別を受けています。社会はまだこの病気の本当のことを知らないからです」と彼女は嘆いた。

ヴァウデノーラさんのようにハンセン病にかかった人は隔離され、家族と連絡がとれなくなっている人が多い。コロニーの中で子どもをもうけた人の中では、子どもがコロニーの外で育てられている人もいる。今でも約2万人の人が、ハンセン病による被害者の社会復帰運動(MORHAN)による再開プログラムを通じて、DNA鑑定などを行い家族を探している。

(文/麻生雅人、写真/Fabio Rodrigues Pozzebom/Agência Brasil)
9月18日、ブラジリアで行われた補償年金7年目のセレモニー

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