4月21日はチラデンチス記念日

2018年 04月 12日

チラデンチス

毎年4月21日は、「チラデンテスの日(Dia de Tiradentes)」としてブラジルの祝日になっています。

チラデンテスは、ポルトガルからの独立のために戦った愛国者として今もブラジル国民の英雄として称えられています。

チラデンテスというのは綽名で、本名はジョアキン・ジョゼ・ダ・シウバ・シャビエー(Joaquim José da Silva Xavier)です。彼の職業が歯医者であったことから、チラデンチス(Tirar(チラー)=「抜く」とDentes(デンチス)=「歯」)というあだ名がつけられたとされています。

チラデンチスがブラジル国民の英雄に祭り上げられた理由を理解するには、「ミナスの陰謀」という事件について理解する必要があります。

チラデンチス

~ミナスの陰謀

1698年にミナスジェライス州(以下、ミナス)で金脈が発見されてからブラジルでゴールドラッシュが現出します。

ポルトガル政府は、1700年から採取された金の5分の1を税金として徴収するキント税(※ポルトガル語でキント(quinto)は5分の1)を導入します。

金脈発見のニュースを受けて、ポルトガル本国からも一攫千金を夢見た人々がブラジルに押し寄せました。1700年のブラジルの人口は30万人程度だったのが、1800年には300万人強とおよそ10倍に増えています。金脈を求める人々の経済活動が行われる場所として首都のサルバドールは遠すぎたので、1763年には首都がリオデジャネイロ州に移されました。

しかし、1700年に始まったブラジルの黄金の時代も永遠に続くわけもなく、1780年代には黄金の産出量が目立って減少してきました。一方で、失業者は増加し社会的緊張が高まっていました。

1788年、ミナスの新知事としてポルトガルからヴィスコンジ・デ・バルバセナがやってきました。彼は、金に対する5分の1税が減少していることから、不足分を臨時付加価値税(Derrama/デハマ税)としてミナスの市民に課すことを決定しました。

経済的不安定な状況の中、バルバセナにより課せられようとしていたデハマ税はポルトガルによるブラジル支配への怨嗟が限界まで高まります。例えるなら、米が不作の年に政府が年貢米の量を増やしたようなものですね。

チラデンチス

1788年、チラデンチスを首謀者としたグループにより、ポルトガルによる支配に対して反旗を翻す計画がミナスのオウロプレットの町で画策されます。

彼らは、ミナスジェライスがポルトガルから分離独立し、共和制を樹立することを目標に掲げていました。

彼らの活動は、デハマ税が公示されるその日にバルバセナ新知事を殺害し、血祭に挙げることから始める予定になっていました。

しかし、この陰謀は、密告により事前に露見してしまい計画は実行されることなく終わってしまいます。

首謀者たちは全員逮捕され、首都リオデジャネイロに送還されます。3年間に及ぶ裁判の結果、陰謀の首謀者たちは国外追放の憂き目にあいました。ただ一人、チラデンチスのみはポルトガル王室からの見せしめのため、1792年4月21日に絞首刑に処せられました。

チラデンチスの身体は四つ裂きにされ、オウロプレットの町の広場に晒されました。これが「ミナスの陰謀」として知られる事件の概要です。

~ブラジル政府によって英雄にされたチラデンチス

長い間、チラデンチスの処刑は一つの「反乱の死」として理解されていましたが、ブラジルがポルトガルから独立し、共和制を敷いた際に時の政府がチラデンテスの話をブラジル独立のイメージとして持ち出してきました。

チラデンチスは、独立と自由のために殉死した英雄であるというイメージが後から広められたのです。

「ミナスの陰謀」自体は、小規模な反乱だったのですが、今でもブラジル独立活動の第一歩として語り継がれています。

(文/唐木真吾、写真上/Tomaz Silva/Agência Brasil、写真中/PMPR、写真下/Henrique Chendes/Imprensa MG)
写真上はリオデジャネイロにあるチラデンチス宮殿と像。写真中はクリチーバ市にあるチラデンチス像。写真下はミナスジェライス州政府が運営するミナスの陰謀の歴史を伝える電子BOOK