ブラジルで逃亡生活を送った大列車強盗ロニー・ビッグス、ロンドンで死去

2013年 12月 22日

ロニービッグス

「世紀の大列車強盗」として知られる英国生まれのロナルド(ロニー)・ビッグスが12月18日(水)の早朝に他界したことを同日付の「エスタダォン」、「G1」(電子版)などが伝えた。ビッグスはロンドン北部の養護施設で生活していた。

世紀の大列車強盗犯は逃亡生活の大半をリオデジャネイロで過ごし、その波乱万丈の人生は、映画にもなり、リオのカーニバルの行進テーマ曲(サンバ・エンヘード)でも歌われた。

ロナルド・ビッグスは1963年に、ロンドン~グラスゴー間の郵便列車を襲い260万ポンド(今日の4000万ポンドに相当)を奪った強盗団のひとり。ビッグスを含む12名の強盗団は翌年逮捕され、ビッグスは懲役30年の刑を宣告され収監されたが、15か月後に脱獄した。

脱獄後ビッグスは整形して顔を変え、フランス、オーストラリア、パナマ、カラカスを経て、1970年にブラジルに渡った。36年の逃亡生活を送ったビッグスは、そのほとんどをブラジルで過ごしたことで知られている。ブラジルでは大工仕事などで生計をたてながら、リオデジャネイロのサンタテレーザで暮らしていた。

ブラジル人ダンサーのハイムンド・ヂ・カストロさんとの間に一人息子マイケルを設けている。ちなみにこのマイケルはマイキの愛称で1980年代にTVグローボの子供番組「バラォン・マジコ」に出演、ジャイールジーニョ(現:ジャイール・オリヴェイラ)、シモニー、トビらと共にバラォン・マジコのグループの一員として活躍した。

1974年、ビッグスの所在はスコットランドヤードに知られるところとなり、一度は国外追放処分が下されたが、ビッグスはブラジルで生まれた子供の親はブラジルに滞在している同国に留まる事ができるという法律に保護され、国内にとどまることができた。

ビッグスの国外追放騒動は、当時ビッグスがハイムンドと共にTVグローボの「ファンタスチコ」に出演したことでブラジル中に知れ渡った。また、息子マイケルが芸能界入りするきっかけを作ったのも「ファンタスチコ」だった。

ビッグスの名は広く知られるところとなり、その生き様は、さまざまな映画やドラマにインスピレーションを与えた。また、1988年にはスコットランドヤードとの一件を題材にした映画「Prisoner of Rio(日本発売ビデオタイトル「リオの逃亡者」)」(ポーランド、イギリス、ブラジル、スイスの合作)が制作され、ビッグス自ら原案と脚本で参加した。

「Prisoner of Rio(「リオの逃亡者」)」は、ブラジルにいる限り手が出せないため、なんとかビッグスを一歩でもブラジルの外へ連れ出そうと画策するスコットランドヤードのジャック・マクファーランド刑事と、ビッグスとの駆け引きが物語の軸となっている。しかしビッグス逮捕に周年を燃やす刑事もまたリオデジャネイロに取り込まれてしまう。主役はビッグスでもなくファーランドでもなく、彼らを取り込むリオデジャネイロとも取れる内容で、ビッグスのリオへの想いが反映された作品とも見える(最終的には映画はビッグスの意向と異なる内容となり、ビッグス自身は気に入っていなかった)。

また劇中のビッグスはエスコーラ・ヂ・サンバ、サウゲイロの一員でもある。映画にはジョゼー・ヴィウケル、ブレーノ・メロ、ゼゼ・モッタ、ルル・サントスが出演、ルイス・ボンファが音楽を手掛けている。

1978年にはビッグスは、英国のパンク・バンド、セックス・ピストルズのヴォーカルとして迎えられている。リードヴォーカルのジョニー・ロットンの脱退、シド・ビシャスのNY行きと前後して、バンドのマネージャーのマルコム・マクラーレンは最高にパンクでモンキー・ビジネス丸出しなヴォーカリストを起用することを画策した。

残るメンバーのスティーブ・ジョーンズとポール・クックをブラジルに向かわせ、ビッグスをヴォーカルに起用して「ゴッド・セイブ・ザ・ピストルズ(No One Is Innocent)」を録音した。このときの模様はドキュメンタリー映画「ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル」(監督ジュリアン・テンプル)にも収められている。

1981年には、ビッグスはジャーナリストを装った男2名にリオのレストランで誘拐され、パラー州のベレン行木の飛行機に乗せられ、さらにバルバドスへ連れられた。誘拐犯はビッグスのイギリス警察への引き渡しと、英国のタブロイド紙に記事を売ることを計画していたが、バルバドスは英国と犯罪者引き渡し条約を結んでいなかったこともあり引き渡しを行わず、誘拐犯の計画は失敗に終わり、ビッグスはブラジルに戻った。

1994年、自伝「Odd Man Out(はみだし者)」を出版。日本では95年に「最後の逃亡者 ロナルド・ビッグス自伝」(2002年版は「大列車強盗の痛快一代記 – ロナルド・ビッグズ自伝」)として発売された。

1997年、英国はビッグスの引き渡しをブラジルに求めたが、ブラジル連邦最高裁判所は時効の成立を理由に要求を退けた。ビッグスも英国に還り収監されることを望んでいなかった。

翌1998年、エスコーラ・ヂ・サンバ(サンバ団体)、ウニードス・ダ・ポルト・ダ・ペドラがサンバエンヘード(カーニバルの行進テーマ曲)「Samba No Pé E Mãos No Alto. Isto É Um Assalto」でビッグスのことを歌った。当時「アジェンシア・エスタード」は、ビッグスは同団体から、カーニバルでアレゴリアに乗る招待を受けたが辞退したことを報じている。

当時ビッグスは「ヂスフィーリ(カーニバルの行進)は楽しいものでなければならない。泥棒が行進に参加して楽しい行進になるか?」とコメントしたという。

2001年、健康状態に問題を抱えていたビッグスは帰国を受け入れた。帰国に関する報道を独占報道する条件でタブロイド紙「ザ・サン」がチャーター機を用意して、ビッグスは英国に旅立ち、スコットランドヤードのジョン・コールズに逮捕され、8年間収監された。

2009年以降は健康上の問題もあり釈放され、養護施設で以降の人生を送った。2011年には自伝「Odd Man Out(はみだし者)」を再出版していた。

(文/麻生雅人、写真/Getty Images)
写真は1990年、リオデジャネイロのロニー・ビッグス