ブラジルにおけるキリスト教事情
2014年 01月 7日今回からコラムを担当させていただきます、徳弘です。筆者は、ブラジル・サンパウロでルーテル教会(プロテスタントのキリスト教会)の宣教師をつとめています。とはいっても、このコラムはキリスト教に関するお話だけをする場ではありません。私が暮らしているサンパウロの身近な話題、日々感じていることなどをご紹介していくコラムです。
しかし、ブラジルはカトリック大国で、キリスト教の文化が国の根底にありますから、ブラジルのこと、ブラジル人のことをお話するとき、キリスト教文化との関わりと避けて通れないことも少なくありません。ですから、私なりに、私の立場だからこそ感じるブラジルのキリスト教文化の話題については、お話していきたいと思います。
さて、今回は第一回ということで、筆者の自己紹介を兼ねて、ブラジルにおけるキリスト教の状況についてお話したいと思います。
ブラジルは、キリスト教人口が多く、各種統計では、73%とも65%とも言われる人々がカトリック信徒と言われています。そしてこの人口は、世界最大のカトリック信徒人口を抱える国ということでもあります。2013年3月に行われたローマ法王選挙でも、サンパウロ大司教をつとめる枢機卿の名が候補にあがるという下馬評もありました。
そんなローマカトリック教会の、大きな悩みと危機感のひとつに、ブラジルでのカトリック人口の減少と、急激に伸びてきたエバンジェリコと言われる過激なプロテスタント・福音派教会の社会への影響があります。
カトリック離れの原因はさまざまですが、昔のカトリック宗主国の植民地政策や、その後の歴史の中で作られた政府とのつながりが強いカトリック教会は富や権力も強大なため、一般民衆の心が離れていっている、という面もあるようです。
また、カトリック教会の価値観や理念が、現代の人々の生活とかけ離れてきているのでは、という声や、神父さんの言うことが定型的すぎて現実の出来事に具体的に対応してくれない、という話もよく耳にします。その反対に、説教が分かりやすく礼拝(ミサ)も情熱的で、病気を治したり奇跡を強調したりするといった過激な福音派が幅を利かせているというのです。
筆者が属しているルーテル教会は、1517年のドイツのマルチン・ルターの「宗教改革」に端を発する世界で一番古いプロテスタント教会ですが、歴史と伝統があるという面では、最近の過激な福音派教会よりも、カトリック教会に、伝統や考え方は近いのかもしれません。私の牧師の服装も、カトリックの神父さんと同じものです。
ブラジルのルーテル教会は、リオ・グランデ・ド・スル州などドイツ系移民の多い街や州に多くあります。これらはドイツ系移民の人々がブラジルに伝統や文化、そして「宗教も持ってきた」感じで、カトリックとルーテル教会があります。ドイツ本国と同じように其々がすみわけ共存しています。他に、イタリア系の移民の多い街にはイタリア系のカトリック教会という具合に、レバノン系、ロシア系の教会があるという感じで、世界各国がこの国に集まって、今では母国語ではなくて同じポルトガル語を話しながら共存している様子は、移民の国ならではです。
そして、私たちの日系ルーテル教会も、これらのルーテル教会の系列に加盟しています。ドイツ人の街の中には日系人の農業集落もあり、そこではカトリック信者かルーテル教会信者になった日本人も少なくありません。二か月に一度、日本語の礼拝をしに出張し、三カ所を泊まり歩きながら農家で日本語で聖書の学びや礼拝をしています。
私のいるサンパウロでも、日系人や日本人が多いですから、その中でキリスト教信徒も多く、私たちの教会に来てくれています。
他にもブラジルには、ハンガリー系やスカンジナビア系の言語を使う移民によるルーテル教会もありましたが、世代交代していく中で消滅・統合され、他言語を使うエスニックなルーテル教会は、私たちの日系のグループのみになりました。
私たちの教会は、「ブラジルにも日系人が多くいるので、彼らのために日本から宣教師を送り、一緒に社会に奉仕しよう」との要請を受けて、サンパウロに1965年に初代宣教師が送られて、始められました。
日系一世の若い世代がいた1960年代ころは、その子どもたちと共に、たくさん人が集まる教会でした。後に、1960-1970年代は企業駐在員やその家族が押し寄せ、活況を呈した時代もあります。しかし、1980-90年代のブラジルの高度なインフレと日本のバブル崩壊で日本企業は次々に撤退し、日系人の家族も子どもたちは日本語を使わないので日系の教会には来なくなり、お年寄りが中心に集う教会になっていきました。
私が4年前に来たときに、将来も継続して存続し、日系人や日本人、ブラジル人に奉仕できる教会になればと願っていましたが、ちょうど持ち上がった立ち退き話に応えて、教会を日系人の中心地リベルダージに移転、各種教室やポルトガル語礼拝も始め、さまざまなイベントも活発にして、やがて人の出入りが増えていきました。
また、教会を以前より大きな建物に移転することができたので、教会メンバー用の簡易宿泊研修部屋を要望に応じてゲストハウスとして一般開放しています。それによって教会は、日系人や日本人の留学生、旅行者、駐在員、南米諸国からの留学生などの交流の場にもなっています。
私の心がけていることは、偉そうな?宗教家ではなくて、一緒に笑ったり泣いたり、人生を楽しんだりする牧師であろうとしていることです。この教会を、伝統や常識にとらわれずに、ブラジル人、日本人、日系人を問わず、必要とする人のためには何でもやってみようとする、柔軟性ある教会にすることです。
(写真提供/徳弘浩隆)