ブラジル音楽界の名アレンジャー、リンコン・オリヴェッチ他界

2015年 01月 15日

リンコン・オリヴェッチ

指揮者、編曲者、プロデューサー、作曲家、鍵盤奏者としてブラジルのポピュラー・ミュージックを支え続けてきたマエストロ、リンコン・オリヴェチが1月13日(火)、他界した。60歳だった。

マエストロの娘マリー・リン・オリヴェッチさんによるとジョアにある自宅で同日夜18時頃、心臓発作を起こしたという。現地メディア(「オ・グローボ」1月14日づけ)が報じた。

チン・マイア、ジウベルト・ジウ、ガウ・コスタ、ヒタ・リー、ホベルト・カルロス、カエターノ・ヴェローゾ、マリア・ベターニア、そしてルル・サントス…。長いキャリアの中で、ブラジルを代表する編曲者のひとりとして、ブラジル音楽のさまざまな偉大なる顔ぶれと共演してきた。

告別式は15日の10時からサン・ジョアン・バチスタ墓地にて行われる。埋葬は16時より。

自身の公式フェイスブックによると、リンコン・オリヴェッチは1954年、ニローポリス生まれ。3歳でピアノを学び、9歳のときすでに郊外のバイリ(ダンスホール、クラブなど)の楽団に参加していた。

1970年代中ごろに音楽的パートナーとなるホブソン・ジョルジと出会った。1982年、ソンリヴリからホブソン・ジョルジ・イ・リンコン・オリヴェッチ名義でアルバム「ホブソン・ジョルジ・イ・リンコン・オリヴェッチ」を発表している。

とりわけブラジリアン・ソウルの雄チン・マイアの作品における影響は大きい。1978年作「チン・マイア・ジスコ・クルビ」(アトランティック)でアレンジャーに起用されたリンコンは、アース・ウィンド&ファイアにインスパイアされたサウンドをチン・マイアのソウル~ファンクに持ち込み、チン・マイアの、ひいてはブラジルの、ソウル・ミュージックを大きく進化させた。

チン・マイアは1960年代末にアメリカ合衆国に滞在してソウル・ミュージックの洗礼を受けた。音感が優れていたチンはソウル・ミュージックのアレンジを詳細に記憶してブラジルに持ち帰り、帰国後、それを再現しながらブラジルのソウル・ミュージックを確立していった。

ネウソン・モッタが記したチン・マイアの伝記「ヴァーリ・トゥード」によると、リンコンが登場するまでチン・マイアのレコード制作におけるアレンジャーの主な仕事は、チンが頭の中に描いたアレンジをほぼ忠実に楽譜に起こして演奏者に伝えることでしかなかったという。

チンのアイディアを受け止めつつ、自由に音楽的アイディアを加味して、よりチン・マイアのソウル・ミュージックを強烈なサウンドに作り上げた初めてのアレンジャーがリンコンだった。

1980年代後半まで続いたコラボレーション・ワークにより、チン・マイアとリンコン・オリヴェッチは、互いの音楽的知識や想像力をぶつけ合い昇華させながら、ブラジルならではのソウルミュージックを作り上げた。

リンコンに対するチンの信頼は厚く、マイケウ・スリヴァンがプロデュースを手掛け制作が始まった1985年作「チン・マイア」(RCA)でも、マイケウと対立したチンはマスターテープを持ち逃げして、最終的にはリンコン・オリヴェッチに託してアルバムを完成させている。

チン・マイアの諸作のほか、ホブソン・ジョルジ「ホブソン・ジョルジ」(78)、ベウキオール「トドス・オス・センチードス」(78)、トニー・ビザーホ「ネッシ・インヴェルノ」(78)、ドン・ベト「ノッサ・イマジナサォン」(78)、マリーナ「オーリョス・フェリーゼス」(80)、ルイス・メロジーア「ノス」(81)、ナラ・レオン「ホマンシ・ポプラール」(81)、ガウ・コスタ「ファンタジーア」(81)、ジウベルト・ジウ「ルアール」(81)、マリア・ベターニア「シクロ」(83)、ファファ・ジ・ベレン「ファファ・ジ・ベレン」(83)、ジョルジ・ベン「ダヂヴァ」(83)、マルコス・ヴァーリ「マルコス・ヴァーリ」(83)、ベベート「マジカネンチ」(84)、サンドラ・ジ・サー「エウ・センプリ・フイ・シンセロ、ヴォセ・サビ・ムイト・ベン」(98)、ベネー「メウ・ノミ・エ・ベネー」(00)、イヴァン・リンス「ア・コル・ド・ポル・ド・ソウ」(00)、ナナ・カイーミ「デセージョ」(01)、パウラ・リマ「パウラ・リマ」(03)、ダニエラ・メルクリ「バレー・ムラート」(05)、ゼカ・パゴジーニョ「アクースチコMTV 2 ガフィエィラ」(06)などに、演奏やアレンジで関わっている。

(文/麻生雅人、写真/Divulgação)
写真は2012年の演奏