【コラム】日系人がブラジルで読んだマンガとは~ブラジルにおける日本マンガ受容史

2018年 11月 19日

モニカ ブラジル マウリシオ・ジ・ソウザ

私は南米で人口が一番多い都市、サンパウロで生まれた。小学校時代は町の中心部のビルに住んでいた。日系人家族は私達一家だけで、あとはアラブ系やポルトガル系の家族ばかりだった。彼らは皆カトリック信者だったが、わが家だけが仏教だった。

小学三年生になると授業の中にカトリック教育が含まれていたため、カトリック教室の時間は、他の宗教の生徒は教室の外で待っていなければならなかった。40人の男の子だけのクラスに日系人は10人いて、全員が私と同じくこのカトリック教室に参加していた。やはり、日系人の母親は自分の子がブラジル人に差別されないようにと、皆と同じカトリックの授業を受けさせたのだろう。

私が通っていたのはサンパウロの州立小学校だった。最初は日本語しか話せなかったのが三ヶ月ぐらいでポルトガル語が話せる様になり学校ではポルトガル語で話すのが当たり前となっていった。

10人いた日系人のうち日本語が分からない子が半分以上だった。これは第二次世界大戦中、日本の敵になったブラジルに住んでいた日本人一世が戦後、自分の子供には日本語より英語かフランス語を学ばせた方が良いと考えるようになったからだろう。

私たち日本語の読める子供には、ひとつ得をする物があった。それはマンガの雑誌だ。日本から輸入されたマンガは単行本ではなく重い雑誌で、しかも週刊誌であれば一ヵ月分の四冊を一緒に縛ってあった。

それは日本からの船が月一回しか来ないからだ。好きなマンガの続きを読みたくても一ヶ月待たなくてはいけない。でも友達も別の雑誌を買っているから自分のを読んだらすぐ持って行って借りて帰る。それを何人かで読み回していたため何時でも読むマンガはあったし、青年マンガや少女マンガも読んでいた。

日本のマンガは素晴らしいと思っていたため、ブラジルのマンガやアメリカのコミックはほとんど見なかった。これは
日本人の顔をした私たちの特別の世界であった。

その世界では日本人がヒーローであり、夢を持って将来に挑む素晴らしい内容であった。というのも、ブラジルの現実の世界では、日系人の子供は1960年代、町を歩いていると馬鹿にされる可能性があったからだ。

(次ページへつづく)

(文/佐藤フランシスコ紀行、記事提供/「ブラジル特報」、写真/麻生雅人)
写真は駐日ブラジル大使館のマウリシオ・ジ・ソウザの展示