ベッチ・カルヴァーリョの葬儀、ボタフォーゴで行われる
2019年 05月 2日
5月1日(水)、何百人ものファンや友人たちが歌手ベッチ・カルヴァーリョに別れを告げた。
サンビスタ(ベッチ)の遺体は、生前彼女がファンだったサッカーとレガッタで知られるボタフォーゴのクラブ本部にある迎賓サロンでベールにくるまれていた。
ボタフォーゴクラブと、ベッチのホームだったサンバ団体「エスタサォン・プリメイラ・ジ・マンゲイラ」の旗が棺の周りに配されていた。
会場のスピーカーは、60年近いキャリアの中でベッチが録音したさまざまなヒット曲を流した。
マンゲイラの一員であり、グリーンとピンクをチームカラーとする同団体のシンボル的存在の一人ネウソン・サルジェント(彼が書いた「Agoniza, mas não morre(サンバは死なず)」はベッチが78年にヒットさせた)も葬儀に参列した。
共演経験のあるベッチに別れを告げた歌手のゼリア・ドゥンカンは、ブラジルは“サンバのマドリーニャ(代理母、後見人)”を失い嘆いていると語った。
「ブラジルの音楽、ブラジルの思想、ブラジルの女性に多大な貢献を果たした勇敢なる表現者であり稀有な才能の喪失を、ブラジルは嘆いています。ベッチのサンバのレパートリーはブラジルで最も美しく、最も完成度の高いもののひとつです」(ゼリア・ドゥンカン)
歌手のテレーザ・クリスチーナは、ここ数年健康が優れなかったにもかかわらず、ベッチ・カルヴァーリョが決して希望を捨てることはなかったと回想した。
「(ベッチは)12年も痛みと共に生きてきました。時々不調を訴え歌うことができないこともありました。それでも彼女は最後の日まで歌いたいと望みました。彼女は5日に歌うことを望んでいました」と、テレーザは、次の日曜(5月5日)、ベッチの誕生日に開催が予定されていたコンサートのことを含めて語った。
ベッチのマネージャー、アフォンソ・カルヴァーリョによると、入院していてもベッチは大人しくしていることができなかったという。
「彼女は喜びと共に、自身を持って私たちの舞台を力の限り最後までやりとげようとしていた戦士でした。彼女は微妙で危険な状態にありながら、VIVA RIOの誕生日のコンサートを行うことを願っていました。並みの人なら彼女のように病院のベッドでコンサートを行うことを計画することは無理だったでしょう」(アフォンソ・カルヴァーリョ)
サンバの代表的な存在の一人ゼカ・パゴヂーニョは、彼自身を含むブラジル音楽の新しい才能が駆け出しのころに、ベッチ・カルヴァーリョが与えたサポートについて回想した。
「彼女は多くの人を引っ張り上げました。私は単なる作曲家で、ベッチのおかげで“ゼカ・パゴジーニョ”になったとよくおどけて話しますが、(それまで)私の仕事は作曲でした。彼女は私と(出世曲となった)『カマラォン・キ・ドルミ・ア・オンヂ・レヴァ』を、私をフィーチュアして録音してくれたので、私は今日皆が知っているゼカ・パゴヂーニョになることができたのです」(ゼカ・パゴヂーニョ)
2005年に創設されたベッチのファンクラブ「アンダンサ」の会員ファビオ・フェルナンデスは、ベッチに別れを告げるためミナスジェライス州からやって来た。
「私たちは誕生日のコンサートを見に来る準備をしていました。しかし残念なことに私たちは意外な知らせを受けたのです。でも、私に残っているのはいい思い出だけです。ファンクラブはこの死別を嘆いていますが、天国は今フェスタでしょうね」(ファビオ・フェルナンデス)
ベッチ・カルヴァーリョの遺体は16時ごろボタフォーゴ本部を出た後、消防団の行列と共にカジュー墓地まで運ばれ火葬される。
(記事提供/Agência Brasil)