「ジョーヴェン・グアルダ」60周年を記念した大回顧展、サンパウロではじまる

2025年 03月 1日

jovem_guarda_tv_record_acervo_mis
ジョーヴェン・グアルダの“帝王”ホベルト・カルロスの肖像が掲げられた舞台(写真/Museu da Imagem/Divulgação

“とてつもない波だぜ、最高のギターサウンドのお祭りだ!”。エラズモ・カルロスが歌った「フェスタ・ジ・アホンバ」に出てくるフレーズは、2025年に60周年を迎える、この国の最も重要なカルチャームーヴメントの一つである「ジョーヴェン・グアルダ」を、言い表している。

2月27日、サンパウロ市の音と映像の博物館(MIS)で、60周年を記念して、このムーヴメントの偉大な牽引者たちのレコード、ポスター、衣装、ビデオ、雑誌の表紙、写真、私物などを展示する展覧会が一般公開された。

若者により若者のために生み出された「ジョーヴェン・グアルダ」は、TVへコールで1965年8月22日に始まった、日曜午後の大ヒット番組から育ったムーヴメントだ。

「ジョーヴェン・グアルダは、若いアーティストたちが若い聴衆たちに向けてアピールするという、初めての番組でした。それは若者層に訴えかける目的で広告主のカリート・マイアが制作したテレビ番組でした。ブラジルの音楽は『ジョーヴェン・グアルダ』以前も以降も非常に豊かでしたが、それまでは、若者に訴えかけるような側面は持っていませんでした。初めてこれを成功させたのが『ジョーヴェン・グアルダ』なのです。そのため、この革新的な存在を再評価しています」と同博物館のキュレーター、アンドレ・ストゥルン氏は語った。

アメリカ合衆国で生まれたロックンロールの影響を受けたジョーヴェン・グアルダは、ロマンチックで普遍的で若者に向けられた、活気と喜びに溢れた音楽だった。そしてこれが、このムーヴメントに論争を引き起こす最大の要因でもあった。それは、当時。軍事独裁政権下に直面していた国の問題に、無関心で、懸念を表明していない、というものだった。

「ジョーヴェン・グアルダと呼べるムーヴメントは世界中で同時に多発しました。ブラジルの『ジョーヴェン・グアルダ』も、ロック、ジーンズ、(エレキ)楽器、音楽、ふるまいのすべてを導入して、アメリカ合衆国からの強い影響、アメリカ合衆国化を被りました」とジャーナリストのワシントン・モライスは説明する。

1967年、サンパウロ市でエレキギターに対する反対デモが行われた。エリス・ヘジーナ、ジェラウド・ヴァンドレー、ジウベルト・ジウといった歌手やシンガー・ソングライターが先頭に立ったグループが抗議を唱え路上を行進した(構成者注:1)。

国産音楽保守派はジョーヴェン・グアルダ、そしてこのムーヴメントが象徴していた国外文化による侵略を批判した。彼らにとってエレキギターはアメリカ帝国主義の象徴だった。

「彼らはブラジル音楽におけるエレキギターの使用に異を唱えました。しかしそのすぐ後にジウベルト・ジウはオス・ムタンチスを連れて(エレキサウンドの)『日曜日の公園で』を発表しました。何らかの形で反対した人々もみな、後に撤回せざるを得なくなりました。エリス・ヘジーナも後にホベルト・カルロスの歌を録音しました。新しい存在は、それが表われるとき、常に何かしらの抵抗を受けるものです。そしてジョーヴェン・グアルダが受け入れられるのにも時間がかかりました」とモライス氏は回想した。

「しかしながら、ジョーヴェン・グアルダは、レコード会社がこの音楽ムーヴメントを認識して才能ある若いアーティストを追いかけ始めたことで、ひとつの楽器産業とレコード産業を創出しました」(同)

<番組>

ジョーヴェン・グアルダは、TVヘコールのオーナー、パウロ・マシャード・ジ・カルヴァーリョがサッカー番組に代わる若者向けの娯楽を生み出そうという考えから生まれた。“帝王”ことホベルト・カルロス、“巨人”ことエラズモ・カルロス、“かわいこちゃん”ことヴァンデルレーアによって番組は紹介された。

番組は、当初は「フェスタ・ジ・アホンバ(ギターサウンド・フェスタ)」と呼ばれていたが、「ウッチマ・オーラ」紙に掲載されたヒカルド・アマラウのコラムにインスパイアされたカルリット・マイアの提案に基づき「ジョーヴェン・グアルダ」となった。このフレーズは、1917年のロシアの革命の指導者の一人であるウラジーミル・レーニンの「社会主義の未来は若き衛兵の肩にかかっている」という言葉に基づいていた。

1968年まで続いたこの番組の成功は、音楽業界全体を活性化させただけでなく、ホベルト・カルロスが着用したスーツや、フィギュアのライセンス産業も生んだ

「ジョーヴェン・グアルダの歌詞からは、ブロート、エ・ブラーザ、モーラなど、ポルトガル語の口語と化した言葉や俗語も生まれました」とアンドレ・ストゥルン氏は説明した。

<展覧会>

この展覧会は、この時代に関するブラジル最大級の個人コレクションを所有するジャーナリスト、ワシントン・モライスのコレクションが基になっている。展示品は、このジャーナリストが10代の頃から収集し始めた1000点以上の品々から構成されている。

「1965年のこと、私はまだ10代でジョーヴェン・グアルダに興味を抱き始めました。レコードを買いたかったので貯金をしました。一番最初はシングル盤でした。お金が貯まってシングル盤を買って、その後、LPも買いました。その後、フィギュア、楽譜、レコード、雑誌、本、伝記とこのムーヴメントに関するすべてのものに範囲は広がりました」とワシントン氏はアジェンシア・ブラジルに答えた。

ジャーナリストでもありコレクターでもあるモライス氏は、ブラジルおよび世界中の若者の音楽ムーヴメントに関する独自の社会歴史的考古学の観点による発表も行っている。

「私はジャーナリストなので、彼ら(ジョーヴェン・グアルダのアーティストたち)の多くにインタビューもしています」(ワシントン・モライス氏)

同氏のコレクションを基に、展示は、ブラジルのロックの黎明期からスタートして、ジョーヴェン・グアルダの登場へと移り、ホニー・ヴォン、マルチーニャ、レノ&リリアン、ホージマリー、ヴァネッサ、エドゥアルド・アラウージョ、ジェリー・アドリアーニなど、このムーヴメントのその他の立役者たちもスポットを当てている。

展覧会のセッションのひとつは、2月22日に他界した歌手リリアン・ナッピ(レノとのデュオで活躍した)に捧げられている。

「私たちは(アーカイブの)資料に基づいて行った調査を行い、私は、例えばジョルジ・ベンジョールとセルジオ・へイスもジョーヴェン・グアルダに参加していたことを発見しました。その後、彼らは全く異なるキャリアを歩みましたが、ジョーヴェン・グアルダは多くの人々に門を開いたのです」とストゥルン氏は強調した。

「若さという概念をもたらしたのがジョーヴェン・グアルダです。この視聴者層を対象とした初の若者向けの番組でした。さまざまなスラングや表現を駆使して、ファッションや行動にも大きな影響を与えました。たとえば、女性たちは、ピュアでおしとやかというイメージから解放され、ミニスカートを履いて、彼女たちが望んでいる姿を射表現できるようになりました」と、ワシントン・モライスの娘で展覧会の共同コーディネーターを務めるイングリッジ・モラエス氏は語った。

「今日に至るまで、このムーヴメントに関するさまざまな映画や研究があります。楽曲群は、新世代のアーティストによって再録音されています。このムーブメントは多くの世代のミュージシャン、特に80年代のロックバンドに多大な影響を与えました。歌詞の表現のクールさ、ルックス、ユーモアのセンス、不良っぽさが(がこのムーブメントの特徴でした)」(イングリッジ・モラエス氏)

展覧会の詳細は音と映像の博物館(MIS)の Webサイトを参照のこと。同博物館は、火曜日と第三水曜日は入場無料となる。

<注1:多くの音楽評論家、研究者が、1967年に行われた反エレキギターデモは、当時のTVへコール内の立場が異なる二つの音楽番組の対立構造を煽る番組宣伝に利用されたものであったことを指摘している。デモを先導したエリス、ジェラウド、ジウは、エレキサウンド派の『ジョーヴェン・グアルダ』に対抗して放送局が準備た非エレキサウンド派の『統一戦線 ブラジリアン・ポピュラーミュージックの夜』のメイン司会だった。サンパウロ大学で博士号を持つ社会学者クラウヂオ・ノヴァイス・ピント・コエーリョによると「(「ジェーヴェン・グアルダ」に対抗する)3番目の番組を宣伝するため、TVヘコールは1967年7月に、“エレキギター反対デモ行進”として知られることになる路上デモ行進を主導したが、しかしこれはなにより、マーケティング戦略だった」(「O III Festival de Música Popular da TV Record:uma abordagem dialética do documentário Uma noite em 67」Líbero – São Paulo – v.14, n.28,p.119, dez. de 2011)。音楽評論家カルロス・カラードによると「これはまさにジルにとって、まさしく頭痛の種だ。自分は今、完全にビートルズの虜だし、自分自身の音楽も、歌詞、メロディ両面で、海外の要素を取り入れていきたいと思っている。イエ・イエ・イエ(注:ジョーヴェン・グアルダ)に対しても、何も反感を持ってはいない。しかし、デモに参加しないというのは言語道断だった。TV局側とエミペビスタ(注:主に反エレキ派)達からもプレッシャーが掛けられているだけでなく、実はエリス・ヘジーナとの付き合いからも、デモに参加しないわけにはいかなかったのだ」(「トロピカリア」P.102 ,プチグラパブリッシング)>

(記事提供/アジェンシア・ブラジル、構成/麻生雅人)