軍事政権時代に暗殺されたズズ・アンジェウ、没後50年

2026年 04月 22日

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ズズ・アンジェウの運転する自動車の事故現場(写真提供:Comissão Nacional da Verdade/Arquivo O Globo)

50年前、リオデジャネイロのドイス・イルマンス・トンネルを走行していたファッション・デザイナーのズズ・アンジェウの車に、対向車が突っ込んだ。

彼女の車は高架橋の防護壁に押しつけられ、そのまま崖下へ転落した。事故として偽装されたこの襲撃は、ブラジル軍事独裁に対して堂々と声を上げていた人物の一人を沈黙させた。

ズズが殺害されたのは53歳のときだった。彼女は、独裁政権に武装闘争で立ち向かった革命組織MR-8のメンバー、スチュアート・エジガー・アンジェウの母親でもある。1971年、スチュアートは空軍情報センター(Cisa)の施設内で拘束され、拷問を受け、殺害された。ズズはその後5年間にわたり息子の行方を追い続け、政権の責任を公に訴え続けた。

サンタカタリーナ連邦大学(UFSC)の歴史学者であるクリスチーナ・シェイビ・ウォルフ教授によると、ズズ・アンジェウの歩みは、南米の独裁政権下で“痛みを行動へと変えた”多くの母親たちが声をあげた一連の運動のひとつとして位置づけられている。アルゼンチンの「五月広場の母たち」は、その最も象徴的な例として知られる。

母性というイメージが、世論を喚起し、独裁体制の暴力を可視化するための政治的メッセージとして用いられた。

「この戦略は、当時広く社会に浸透していた“女性は母親であるべき”という性別役割観と響き合うものでした。独裁政権の側にいる者たちでさえ、女性を“母親”という役割から捉えていたのです。だからこそ、失踪者の母親たちは、政権が“犯罪者”“テロリスト”とみなしていた人々に対し、より人間的なイメージを提示することができたのです」(クリスチーナ教授)

「この種の運動は、南米の独裁政権を弱体化させるうえで非常に重要な役割を果たしました。大衆からの政権への支持を失わせる効果があったのです。武装闘争は最終的に敗北し、1970年代のブラジルではほぼ消滅しましたが、家族による運動は独裁の残酷さを世間に示すうえで、より大きな影響力を持ちました」(クリスチーナ教授)

同教授によると、1960〜70年代のコーノ・スールと呼ばれる南米南部地域(ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア)における抵抗運動の構築と発信において、ジェンダーは周縁的な要素ではなく、中心的な役割を担っていた。

武装組織が勇気、力、行動、犠牲といった“男性性”に結びついた言説を掲げていた一方で、人権団体や家族の運動は“女性性”に関連づけられ、感情、痛み、共感を前面に押し出していた。

ズズの場合、著名デザイナーとして国際的なつながりを持っていたことも、彼女の訴えが広く届く要因となった。

「彼女は息子への母親としての愛情を込めて語りかけ、人々の心を動かしました。同じ境遇に置かれた母親たちからの連帯も得ていました」と語るのは、ジャーナリストでありズズの娘でもあるイウデガルジ・アンジェウだ。

「当時としては非常に異例の、勇気ある行動でした。多くの人々が沈黙し、恐怖に縛られていた時代です。彼女は[エミリオ・ガハスタズ・]メジシ政権下でスチュアートの死を告発し始め、その後の[エルネスト・]ガイゼル政権でも活動を続けました。二つの全体主義政権に立ち向かったのです。そして、その代償を払うことになりました」(イウデガルジ・アンジェウ)

<ズズの闘い>

ズレイカ・ジ・ソウザ・ネト(ズズ・アンジェウ)は1921年、ミナスジェライス州クルヴェロで生まれた。1939年にリオデジャネイロへ移り、仕立て職人として働き始めた。

同地で米国人のノーマン・エンジェル・ジョーンズと結婚し、1940年代から70年代にかけてデザイナーとしてのキャリアを築いた。ブラジル文化の要素──レース、刺繍、ビジューなど──を、シンプルで現代的なシルエットに融合させた作品は国際的な評価を得た。

長男のスチュアート・アンジェウは経済学を学び、1960年代末に軍事独裁に対する武装抵抗に加わった。

スチュアートの失踪後、ズズは訴えを国外にも広げ、米国や国際機関に支援を求めた。国内で厳しい検閲が敷かれていた時期にあって、この戦略はブラジルの人権侵害を国際社会に可視化するうえで大きな役割を果たした。

彼女が頻繁に連絡を取っていた相手の一人が、当時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーだった。また、外国人記者を積極的に巻き込み、インタビューを通じて息子の失踪を訴え続けた。

ズズの闘いを象徴するのは、ファッションを抗議の手段として用いた点だ。彼女はコレクションの中に暴力や抑圧を示す象徴的なモチーフを織り込み、ファッションショーそのものを政治的な告発の場へと変えていった。

負傷した天使の刺繍、亡くなった子どもの姿、戦車、鳥かごの中の鳥──。ズズはこうしたモチーフを作品に取り入れ、抑圧と喪失を象徴する視覚的メタファーとして用いた。ショーの音楽や舞台演出も、葬送的で批判的な雰囲気を強めるものだった。

ズズは脅迫状を受け取り、友人たちには「もし私が死んで見つかったら、息子を殺した者たちの仕業だと思ってほしい」と警告していた。

「当時、体制に立ち向かうなんて正気の沙汰ではないとされていました。自分の命を危険にさらす行為だったからです。彼女のアトリエの近くに警察のパトロール車が止まることがありましたが、彼女は彼らに向かっていったんです。『あなたたちなんて怖くない。私をつけ回しているのは知っている。でも、あなたたちは息子を奪った。もう戻ってこない』とね」(イウデガルジ・アンジェウ)

「彼女の闘いは軍部の強い敵視を呼び起こしました。どうして一人の女性が政権に立ち向かい、新聞に登場し続けることができたのか、と彼らは苛立っていたのです」(イウデガルジ・アンジェウ)

長年にわたり、ズズの死は“事故”とされてきた。しかし2014年、国家真実委員会(CNV)は、政治警察DOPSの元捜査官の証言を含む調査を経て、殺害であったことを正式に認定した。

2025年末、遺族はブラジル国家から訂正後の死亡証明書を受け取った。そこには、死因が「暴力によるもので、国家によって引き起こされた」と明記されていた。

<遺産>

死後数十年を経た今も、ズズ・アンジェウは闘いの象徴として語り継がれている。歴史学者クリスチーナ・シェイビによると、彼女の歩みは権威主義的な権力にどう立ち向かうかを考えるうえで重要な示唆を与える。

「彼女は独裁権力に自分のやり方で立ち向かったという大きな遺産を残しました。抵抗にはさまざまな形があり、決して一つではないことを示したのです。政治的な手段もあれば、武装闘争もある。しかし、芸術や文化を通じても抵抗は可能です。これは現代にも通じる教訓で、闘いには多様な可能性があると理解することが重要です」(クリスチーナ教授)

娘のイウデガルジによると、その遺産は制度的な評価や記憶の継承という形でも表れている。

「闘いを通して、私たちは多くの成果を積み重ねてきました。リオデジャネイロのトンネルの名称をズズ・アンジェウに変更することができましたし、彼女は『国家「英雄・女性英雄」の書』における初の現代の女性英雄にも選ばれました。数々の表彰、メダル、トロフィーも授与されました。リオ州初の大学レベルのファッションコースを創設し、カーザ・ズズ・アンジェウ(ファッション博物館)も設立しました。これらはその一部にすぎません」(イウデガルジ・アンジェウ)

「これは途切れることのないプロセスです。彼女の仕事は決して止まりませんでした。彼女は亡くなりましたが、遺産は生き続けています。ズズの闘いは実を結んだのです」(イウデガルジ・アンジェウ)

(記事提供/Agência Brasil、構成/麻生雅人)