恩師「イクカ先生」
2016年 07月 24日ブラジリアに赴任することになった私に、3か月ほどの超集中授業で、なんとか現地でスタートアップできるようになるまでポルトガル語を叩き込んでくれたイクカが、今年4月に亡くなった。
一度会ったら忘れられない、強烈に元気で温かさ溢れるイクカ。彼女の人生のほんの僅かな部分に接しただけではあるけれど、あまりに印象深い人だったので、彼女について筆をとることにした。
イクカはサンパウロ郊外のモジダスクルーゼスで育ち、栃木県の県費留学生として日本へ留学。その後、外務省の研修所、企業、個人教室でポルトガル語を教えたほか、ドラマの言語指導など幅広く日本で活躍した。
イクカと私の出会いは外務省の研修所だった。
ポルトガル語は全く初めてという、私を含むブラジル赴任予定の6名に、アー、ベー、セー、から始めたのが、なんとか「ベージャ」の記事を読んで要点を述べられるまでになり、基本的なリスニングとスピーキングの力も身につけさせてくれた先生の指導力は凄まじかった。
身につけさせなければ、という先生の強い責任感は、ものすごい迫力で生徒を追い立ててくれた。
イクカ手作りの文法教材には、解説と問題がギッシリ。動詞の活用表はこれまでの生徒さんがまとめた力作をいただいて、覚えにくい数字の単位の虎の巻は、赴任後、机の中のすぐ見られる場所に入れていた。
毎日出されたたっぷりの宿題に加え、イクカは我々に、ポルトガル語で寸劇を作り演じるという任意の課題を出した。
「ヴォセたち、やりたかったらやればいいのよ、楽しいわよ!!」とはいうものの任意の課題とは思えない先生の勢いに、我々6人のうち強者1人以外は、授業後、寸劇の作成と練習に励んだ。
ポルトガル語の出来のみならず、「話にオチがない!」とストーリーにまでダメ出しされ、ようやっと出来あがったのは、ドラえもんのパロディ。オリンピック開催都市リオデジャネイロへようこそ、という空港アナウンスから始まり、訪伯したオリンピックスポンサーの日本企業社長が誘拐されたのを、ドラえもんに登場するキャラが犯人をいいくるめて無事解決、みんなでチョンマゲカツラをかぶってマツケンサンバを仲良く踊るという、振り返れば結構シュールな話だった。
イクカ生(イクカの生徒たち)が集結する伊豆合宿が発表の本番。本番前のリハーサルでは、イクカから最後の檄が飛ぶ。幕の開閉と音響は大ベテランの生徒さんがサポートしてくださり、発表は4~5グループが行った。終了後にイクカの講評と幾つかの賞が発表され、宴会に突入。寸劇の制作から上演を通じてイクカ生たちは、それぞれのバックグラウンドを超えて、絆で一気に結ばれた。
ブラジル赴任中、イクカがブラジルに来たことがある。
ブラジリアにはイクカ生が沢山いたが、イクカはブラジリアという場所には全く興味がなく、サンパウロに来なさい! とのことだった。
サンパウロ赴任中のイクカ生は早々、集結。私も皆に混ぜてもらい、サンパウロと同市郊外のエンブーで、観光と食べ物を楽しんだ。
ブラジルから帰国して、しばらく個人レッスンをして頂いた時には、職業観、恋愛観、結婚観の話にも花が咲いた。
イクカは自分に正直で、人にも正直な、真っ直ぐな人だったと思う。日本は正直者がちゃんと生きていけるのがいい、と言っていた。日本社会のそういうところが彼女は好きだったようだ。
そしてなによりイクカは元気な人だった。
病気が見つかってからも、幸いうまくコントロールし続け、治療のための短期入院が終わればサッサと退院して、バーベキューやろう、シュラスコ行こう、旅行に行こうと、元気溌剌だった。だから、亡くなったと聞いたときは全く実感がなく、イクカ生の仲間とお別れをしに先生の家に行って、やっと、亡くなったのは本当なんだ、と思った。
イクカは彼女が望んだとおり海にいる。暗くて狭いところに納まるような人ではなかったから、悠々自適に過ごしているに違いない。
(写真・文/井上睦子)