映画「アイム・スティル・ヒア」で描かれた活動家エウニッシ・パイヴァの軌跡

2025年 06月 1日

I_M STILL HERE_sub02B
映画「アイム・スティル・ヒア」より、フーベンス・パイヴァ(セウトン・メロ)とエウニッシ・パイヴァ(フェルナンダ・トーヘス)(写真/(C)2024 VIDEOFILMES / RT FEATURES / GLOBOPLAY / CONSPIRACAO / MACT PRODUCTIONS / ARTE FRANCE CINEMA)

ウラジーミル・ヘルツォーク機構による人権教育プロジェクトの一環として運営されているポータルサイト「独裁政権の記憶」でも、「軍事独裁政権に対する抵抗の象徴」と紹介されているエウニッシ・パイヴァ。

同サイトによると、サンパウロ市ブラス地区でイタリア系の家庭に育ったマリア・ルクレシア・エウニッシ・ファチョラ・パイヴァ(1929年 – 2018年)は幼いころから読書が好きで、父親の反対を押し切り、18歳の時マッケンジー大学の文学部に入学。入学試験は首席で合格したという。大学ではリジア・ファグンデス・テーリス、アントニオ・カラード、アロウド・ジ・カンポスなどの文学者と交友があった。

結婚後、夫フーベンス・パイヴァとの間に5人の子どもを授かった。

大統領府人権局の第3次国家人権計画(PNDH-3)によると、ブラジルの軍事独裁政権時代(1964年4月1日から1985年3月15日)に、約2万人のブラジル人が拷問を受けたと推定されているという。

国家真実委員会(CNV)の2014年の報告書の中で、1964年から1973年の間に4,841人が、政治的権利の剥奪、職務の剥奪、退職、解雇などの処分を受けたという記録を提示している。連邦下院議員で、1963年には民主主義活動機関(IBAD)のメンバーでもあったフーベンス・パイヴァもこの中の一人であり、連邦下院議会によると、フーベンス・パイヴァは1963年から1967年の立法機関により、連邦下院議員の職務を取り消され、政治的権利を10年間停止された。

そして1971年1月、軍関係者に連行されたフーベンス・パイヴァはリオデジャネイロの陸軍諜報機関(DOI-CODI)で拷問され殺害された。しかし連邦政府がフーベンス・パイヴァの死亡を認定したのは、失踪から25年後の1996年だった。

フーベンス・パイヴァの失踪と同じころ、エウニッシと娘のエリアーナもOI-CODIに連行された。エリアーナは24時間拘束され、エウニッシは12日間、尋問を受けた。

釈放後、エウニッシは夫の失踪に関する真実を追求し始め、フーベンスが殺害されたという情報に基いて、葬儀を行うために夫の死亡証明書を発表し、遺体が埋葬された場所を明らかにするよう、25年に渡る戦いを続けた。同時に、1961年9月2日から1979年8月15日までの期間に政治活動に参加または参加したと疑われたために行方不明になった人物を死者として認定し、その他の措置を定める法律9140/1995の制定を導く活動においても重要な役割を果たした。

軍事独裁政権下での権利侵害の経験と抵抗の経験は、人権擁護活動に身を投じたエウニッシ・パイヴァの、その後の人生に大きな影響を与えた。

1973年に、法科大学院に入学したエウニッシは。5人の子を育てながら生活と学業を両立させて弁護士となった。弁護士として、先住民族を抑圧する軍事政権の政策に立ち向かい、先住民族の権利保護活動に尽力した数少ない専門家のひとりとして活動した。

先住民族の権利を守るための闘いは、軍事政権が終わり民政化した後も続けた。

1987年、同志たちと共に人類学環境研究所(IAMA)の設立に貢献した。このNGO団体は2001年まで、先住民族の自治と擁護に尽力した。

1988年には、ブラジル連邦共和国の新憲法を制定した憲法制定議会の顧問を務めた。

エウニッシ・パイヴァは14年間アルツハイマー病とも闘い、2018年12月13日、サンパウロで86歳でこの世を去った。

(文/麻生雅人)