ブラジル、オスカー・シュミット氏の死を悼む
2026年 04月 18日

ブラジルバスケットボール連盟(CBB)は4月17日(金)、元バスケットボール選手オスカー・シュミット氏が68歳で死去したことを受け、深い哀悼の意を表した。
声明の中で同連盟は、オスカー氏が「スポーツ界の絶対的象徴として」その生涯を閉じ、コート上で“可能性の限界”を塗り替えた存在だったと強調した。
「ブラジルバスケットボール史上最高の選手が、スポーツ界の絶対的象徴として旅立ちました。CBBは、世界のスポーツ史における最大級のアイドルの一人を失ったことに深い悲しみを表します」と声明は述べている。
CBBはさらに、シュミット氏が世界の主要リーグやバスケットボール連盟から受けた評価にも言及した。
「その評価は世界規模に及びました。オスカーはFIBA(国際バスケットボール連盟)の殿堂入りを果たし、さらに、NBA(米国プロバスケットボールリーグ)の殿堂にも、リーグでプレー経験がないにもかかわらず選出されました。これは、競技そのものを変革した人物にのみ与えられる前例のない栄誉です」
ブラジルオリンピック委員会(COB)もまた、元選手の訃報に深い哀悼の意を示し、オスカー氏が“オリンピック精神を体現した存在”であったと強調した。
「“聖なる手(Mão Santa)”として知られるオスカーは、ブラジルのバスケットボール選手として最多の五大会連続でオリンピックに出場し、大会史上唯一、通算1,000得点を超えた選手です」と、COBのマルコ・アントニオ・ラ・ポルタ会長は述べた。
委員会はさらに、2019年にオスカー氏へ「アデマール・フェへイラ・ダ・シウヴァ賞」を授与したことにも触れた。
同賞は「基礎技術の研鑽に対する尽きることのない献身、技術的・身体的な卓越性、そしてチーム精神」を称えるものだという。
また、今月初めには、ブラジルバスケットボール界のレジェンドとしてCOBの殿堂入りを果たしたが、体調の都合で式典には出席できず、息子のフェリペ・シュミット氏が代理を務めた。
1999年から2003年にかけてオスカーが所属したCRフラメンゴはSNS上で、「ブラジルバスケット界、そして世界のスポーツ界の歴史における最大級のアイドルの一人の訃報に深い悲しみを表する」と声明を発表した。
「永遠の“聖なる手”は、その天賦の才と情熱、忘れがたいシュートで“マント・サグラード(聖なる赤黒のユニフォーム)”を輝かせ、ガーヴェアの時代を象徴する存在となり、ナサォン・フーブロ・ネグラ(赤黒軍団の民)に誇りをもたらしました。彼の絶対的なレガシーはコートを超えて受け継がれ、永遠に世代を鼓舞し続けるでしょう。ご家族、ご友人、そしてファンの皆さまに心よりお悔やみ申し上げます。安らかにお眠りください、レジェンド」とクラブは記した。
オスカーがプロとして最初にプレーしたクラブであるパウメイラス(SEP)も訃報に触れ、選手としての第一歩を“アウヴィヴェルジ(緑白のユニフォーム)”で踏み出したことを強調した。
オスカーは1975年8月、17歳でシリオ戦に出場し、プロデビュー戦で初得点となる4点を記録している。
1977年、パウメイラス在籍時のオスカーは、フラメンゴとの歴史的な決勝を制し、初めてブラジル選手権のタイトルを手にした。
「世界バスケットボール史に名を刻む存在となり、ブラジル代表の永遠の象徴となる以前、オスカー・シュミットは“緑白のユニフォーム”をまとい、プロ選手としての第一歩を踏み出しました。若き才能が国際的評価へと至る軌跡は、ここパウメイラスから始まったのです」と、クラブは声明を発表した。
スポルチ・クルビ・コリンチャンス・パウリスタもまた、オスカーの死を悼んだ。同クラブでは、オスカーが1996年に現役最後の国内タイトルを獲得している。
「2024年時点でスポーツ史上最多得点者であるオスカーは、1996年6月、コリンチャンスを最後の全国タイトルへと導きました。この偉業により、彼はクラブの“メモリアル・コリンチャンス”および“ポリエスポルチーボ(クラブの体育館)”に設置された“名誉の歩道”にその名を刻むことになりました」とクラブは強調した。
オスカー・シュミット氏は、およそ15年にわたり脳腫瘍と闘っていた。関係者によると、葬儀は家族の意向を尊重し、親族のみで執り行われる予定で、静かに別れの時間を過ごしたいという家族の希望が示されている。
元選手が亡くなったサンタンナ・ジ・パルナイーバ(サンパウロ州)市当局によれば、オスカー氏は自宅で体調を崩し、救急隊によって市立サンタ・アナ病院(HMSA)へ搬送された。しかし「すでに心肺停止の状態で、病院到着時には死亡が確認されていた」という。
(記事提供/Agência Brasil、構成/麻生雅人)




