祖先性と高度な音楽理論を融合させたモアシール・サントス 生誕100年

2026年 07月 27日

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米国ではブルーノート・レーベルからも作品を発表した編曲家、作曲家、マルチ奏者、指揮者として知られるモアシール・サントス(写真提供:Fábio Seixo)

編曲家、作曲家、マルチ奏者、指揮者として知られるモアシール・サントス(1926–2006) は、7月26日に生誕100年を迎える。アフロ・ブラジルのリズムとジャズを融合させた膨大な作品群を残したにもかかわらず、ブラジル国内ではいまだ十分な評価を受けているとは言い難い。

彼の代表曲は「ナナン(Nanã)」で、アフロ・ブラジル宗教で最も古い系譜に属するオリシャ神を讃える作品である。行列で祈りを捧げる人々の声がメロディーの出発点となった。映画『ガンガ・ズンバ』(1963)のオープニング曲として使用され、マリオ・テリスが歌詞を付けた。ナラ・レオン、セルジオ・メンデス、チン・マイア、そしてケニー・バレルやギル・エヴァンスといった米国のジャズ界の名手など、100人以上のアーティストが録音している。

ペルナンブッコ州内陸部、セーハ・タリャーダ地域に生まれたモアシールは、幼い頃から鼓笛隊の楽器を習得した。2006年、ロサンゼルス在住中に脳卒中のため80歳で亡くなった。

2016年にラジオMECの特集で収録された証言の中で、モアシールは音楽との最初の出会いを振り返っている。

「人生を理解したとき、つまり自分が生きている存在だと気づいたときには、音楽はすでに私のそばにありました。私たちは町の音楽隊ごっこをして遊んでいました。フローレスでは、子どもたちが裸で歩くのはごく普通で、9歳、10歳くらいまで服を着ないこともありました。だから私も10歳のとき、裸の子どもたちの音楽隊を率いて、通りの真ん中でマーチを演奏していたんです。それが私の音楽との出会いでした」

注:モアシール・ジョゼー・ドス・サントスは1926年4月8日、ペルナンブッコ州内陸部セルタォン・ド・パジェウ地域のセハ・タリャーダで生まれ、母親が亡くなった後、3歳のときにフローレスの町で育てられた(ブラジル放送・テレビ博物館)。

思春期になると、モアシールは家を飛び出し、サーカスの楽団や軍楽隊に加わりながら北東部を巡った。マルチ奏者で編曲家、作曲家、研究者でもあるアラン・アバジアは、ブラジルにおける音楽隊の重要性と、モアシールがその伝統から生まれた音楽家であることを説明する。

「ブラジル帝政期には、国内の音楽家のほとんどが黒人でした。音楽隊は町のラジオのような存在で、日曜の行事を彩るものでした。モアシールはその伝統の中から登場した人物です。大都市に到着したときにはすでにその伝統を身につけており、そこにさらに高度な音楽理論の研究を加えたのです」

ジョアン・ペッソアでは、モアシール・サントスはラジオ・タバジャラーの楽団の指揮者を務め、その後リオデジャネイロへ移り、1948年からラジオ・ナシオナウでサックス奏者として活動した。3年後には、同局のオーケストラの編曲者となっていた。

彼は指揮者セーザル・ゲーハ=ペイシの門下生であり、バーデン・パウエル、ジョアン・ドナート、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ、アイルト・モレイラ、ホベルト・メネスカウなど、多くの著名音楽家の教師でもあった。

フルート奏者であり、著書『Moacir Santos, ou os caminhos de um músico brasileiro』の著者でもあるアンドレア・エルネスト・ジアスは、モアシールが高度な音楽理論の研究を通じて独自の音響的アイデンティティを築き上げたと説明する。それが若い音楽家たちを惹きつけ、彼から学びたいという思いを生み出したという。

「直感だけに頼らず、もう少し深く学びたいと望む人にとって、モアシールは“橋渡し”となる存在でした。高度な音楽理論と大衆音楽のあいだをつなぐ人物であり、多くの音楽家の教師になったのです」

1960年代に入ると、モアシールはエリゼッチ・カルドーゾやバーデン・パウエルのアルバムの編曲を手がけ、映画音楽も作曲した。その一部は1965年のアルバム『コイザス(Coisas)』として発表された。代表作とされるこの作品には、すべて「Coisa(もの)」に番号を付した10曲が収められている。アンドレア・エルネスト・ジアスは、アフロ・ブラジルのリズムとジャズの管楽器を融合させたモアシールの創造性を強調する。

「アルバム『コイザス』は、彼の歩みを凝縮した作品です。吹奏楽団の伝統と、1940年代以降ブラジル各地で強い存在感を持つジャズ・バンドの伝統、その両方の要素が楽器編成に反映されています。アフロ・ブラジル音楽の研究を通じて形成されたアイデンティティが、編成の特徴として、そして何より完璧な音楽構造として強く刻まれているのです」

<海外への移住>

1967年、モアシール・サントスはラジオ・ナシオナウを離れ、アメリカ合衆国へ移住した。現地では、指導者として授業を続ける一方、映画音楽の作曲にも携わり、ヘンリー・マンシーニやラロ・シフリンのチームで活動した。

1970年代には、名門ジャズ・レーベルのブルーノートからアルバムを発表し、その中にはグラミー賞にノミネートされた『マエストロ(Maestro)』も含まれる。アンドレア・エルネスト・ジアスは、この作品でモアシールが導入した革新「モジョ(mojo)」について説明する。

「モジョとは、彼が創り出した一種の総合的なシステムで、非常にスウィング感のあるものです。聴いた瞬間に『これはモアシールのリズムだ』と分かる特徴があります。彼自身がリズムの細胞を体系化し、それを個人的な音楽的“刻印”に変えたのです。『マエストロ』は、モアシール・サントスの新たな段階を示す作品で、アメリカで制作され、非常に興味深いリズムを取り入れています」

1985年、モアシールは第1回フリー・ジャズ・フェスティバルで顕彰され、ハダメス・ニャッタリとともにオープニングで演奏した。彼の作品は、ゼー・ノゲイラとマリオ・アジネーによるプロジェクト『オウロ・ネグロ(Ouro Negro)』で再解釈され、ミウトン・ナシメント、ジウベルト・ジウ、そしてモアシール本人も参加した。『オウロ・ネグロ』は、アラン・アバジアのような新しい聴衆がモアシールの作品に触れる入口となった。

「彼は驚異的な才能の持ち主であり、口承文化の研究やアフロ・ブラジル文化の学びを通じて知性を獲得した人物です。彼の最も際立った特徴のひとつは、ディアスポラのさまざまな芸術表現との対話です。複数の表現をクラシック音楽と結びつけ、アフロ・ブラジル、アフロ・ディアスポラの音楽の本質を、フォークロアに陥ることなく表現することに成功しました」

今年はすでにモアシール・サントス生誕100年を記念するイベントがいくつか開催されており、8月にはアラン・アバジアがサンパウロのSesc研究・研修センターでモアシールの作品について講義を行う予定だ。

「モアシール・サントスの作品を称えることは非常に重要です。名前だけでなく、その美学を理解することが大切です。彼が何を表現しようとしたのかを聴衆が理解することは、芸術家を人間的に捉えることにつながります」

「彼の作品は時代を先取りしていると同時に、未来の音楽家がそれを読み解き、深く探求できる可能性の領域を開いています。私が子どもの頃、彼のワークショップに参加した際、彼はこう言っていました。『自分の国で認められることが、私にとって最大の喜びだ』と」

ヴィニシウス・ジ・モライスは、『Menino travesso』や『Se você disser que sim』の共作パートナーであり、『Samba da bênção』の歌詞の中でモアシール・サントスを称えている。

(記事提供/Agência Brasil、構成/麻生雅人)