ブラジルの大統領選挙。過去にもあった、こんなドラマ
2014年 10月 29日(10月)26日に行なわれた伯国(ブラジル)大統領選は、史上最大の接戦となった。
勝者のジウマ・ルセフ大統領と、敗れたアエシオ・ネーヴェス(ネーヴィス)氏との差はわずか3%ポイント。これはブラジル大統領選の1位と2位の差では過去最小のもので、歴史に語り継がれるものとなりそうだ。
伯国では1989年の選挙から、国民による直接投票による大統領選挙が行なわれている。同選挙からは最初の投票で50%に到達した候補が誰もいなかった場合は、1位と2位になった候補による数週間後の決選投票が行なわれるシステムが採用された。
そのやり方でこれまで7度大統領が選ばれていたが、決選投票まで到達したのはうち5回。その中でこれまでもっとも接戦となったのは、第1回の1989年にフェルナンド・コーロル氏がルーラ氏を53%対47%で破ったときだった。
これは、軍事政権終了後の憲法改定によって初めて実現した伯国民が直接大統領を選ぶ選挙だったが、皮肉にもコーロル氏はこの3年後に収賄疑惑で大統領を罷免された。ルーラ氏はさらに2度落選のあと、13年後に大統領に当選。2期8年間、その座についた。
それ以前となると、軍事政権に突入する4年前の1960年に、最後の国民投票による大統領選が行なわれている。
1945年以降、60年までの5年に1度、計4回の選挙は、複数の候補者が立候補しても1回の投票で大統領が決まっているが、そこでもっとも接戦だったのは、1955年にジュセリーノ・クビチェック(クビシェッキ)氏がジュアレス・ターヴォラ氏を得票率5.4%差で破ったときだった。
このときは、カフェ・フィーリョ大統領が体調不良で辞任した後で、臨時の大統領として就任した当時の下院議長カルロス・ルス氏はクビチェック(クビシェッキ)氏の当選を無効にしようとしたために、3日で大統領職を下された。この頃の大統領選挙には、連邦議会関係者だけが参加。投票者は総人口の13~18%に相当するのみだった。
伯国では1889年の共和制移行でデオドロ・フォンセッカが大統領に就任。その後は4年に一度、聖州とミナス・ジェライス州で相互に大統領を選出。この頃の大統領選挙に関わった人物は国民の1~5%しかおらず、複数候補が出ても、先述した2州の特定候補が90%以上の票が得て承認されていた。
この「カフェ・コン・レイテ(レイチ)」と呼ばれる体制に青年将校たちによる反乱が起きはじめ、それは1930年の選挙でジュリオ・プレステス氏に59.5%対40.5%で敗れたジェツリオ(ジェトゥーリオ)・ヴァルガス氏が起こしたクーデターにつながった。以後、ヴァルガス氏は15年大統領の座についた。
ヴァルガス氏は45年に大統領を退いたあと、50年にブラジル初の民主的な大統領選挙で当選した。だが、軍の抵抗にあうなどしたヴァルガス氏は54年に衝撃の自殺を遂げている。
こうした流れの中で見ても、今回の選挙がいかに接戦だったかがわかるが、今回の場合、これに加えて、選挙1年前の時点での、前回3位のマリーナ・シウヴァ氏の新党不承認、選挙2カ月前でのエドゥアルド・カンポス候補の飛行機事故によるマリーナ氏の突然の繰上げ立候補など、決選投票以前からのドラマでも語るべきところの多い選挙だった(27日付フォーリャ紙より、28日掲載)。
(記事提供/ニッケイ新聞、写真/Tomaz Silva/Agência Brasil)
写真は9月24日、リオデジャネイロ、カテテ宮殿。2014年はヴァルガス元大統領没後60年にあたるため、カテテ宮殿の共和国博物館で、ヴァルガス元大統領回顧展が開催されている(2015年2月まで開催予定)