【コラム:ブラジルとともに 2】貧村だったクーニアを、陶芸の街・避暑地にした二人の日本人女性陶芸家

2024年 06月 8日

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末永さんの陶芸、登り窯段差階段展示(画像提供/末吉業幸)

第一回のコラムに“シンプルに暮らし、自由に生きる、それが一番いい”と書きましたが、ブラジルには、暮らしはシンプルですが仕事では壮大と言うか、奥が深い生き方をしている人がいます。それがクーニアという街の二人の日本人女性陶芸家、美恵子さんと末永さん。登り窯陶芸に出会ったのも、初めての体験でした。

お二人とも日頃の暮らしは実にシンプル、仕事に取り組む姿はひたむきにコツコツ、陶芸のろくろを足で踏み回転させながら両手で練り固めた土を陶芸品に仕上げていく、それをそばで見ていると….なんといい生き方をしているものだなぁ~と感動が沸き上がってくるのを感じました。

1975年はまさに高度成長期のさなかの時代(注1)、好きな陶芸をするために日本から飛び出し未知の世界へ旅立つ…勇気がないとできないことですが、お二人はいとも簡単にそれを成し遂げてきました。専門は違いますが、好きなことをする生き方に素直に共感がもてました。

そんな二人の女性陶芸家の歩みをこれからメモしていくことにします。舞台になっているCunhaクーニアがどこにあるか、それから始めます。

Cuhnaクーニアはどこにあるか?

サンパウロ市からDUTRA国道をリオ・デ・ジャネイロに向け車で行くと200㎞の地点にGuaratinguetaがあります。ここを右にまがり海岸山脈を約50㎞ほど登ったところにある、海抜1000mで5つの部落からなる、人口約4万5千の農村。それがCuhnaです。

道中にあるサンジョゼ・ドス・カンポスには世界航空機メーカーランク3位のEMBRAEL本社・機体組み立て工場、EMBRAELを支えているブラジル最難関ITA工科大学(5年生完全寮制)、VW、FIATの工場などがあります。他にINPEブラジル航空宇宙研もありましたがこちらは北東部マラニョン州に移転しました。舌を噛みそうな(笑)Pindamonhagabaは、現ブラジル連邦政府副大統領アウキミン氏の出身地。別の機会に、医者からSP州知事・副大統領になった同氏の経緯について書きます。

Cunhaは、ブラジルが植民地だった時代にミナスジェライス州で採掘された金を漁村パラチ輸出港からポルトガルへ運ぶ途中の宿場街になり、宿場人が住み、やがて小さな農村になったところ。牛乳・チーズ工場がつくられ近郊の街に売り、生計を立てていました。

その貧村に、日本人女性陶芸家2人と、日本で陶芸修行をしていたポルトガル人が1975年、1978年に移り住み、ブラジルになかった“登り窯”をつくり陶芸の街につくりかえた、ということです。ポルトガル語で金採掘者をガリンペイロと呼びますが、Cunhaはガリンペイロや金運び屋の宿場から農村になり、現在は陶芸の街・避暑地に生まれ変わりました。

さて、これから本題に入ります。

ある日、陶芸家の美恵子さんの工房室・ショールームを訪れた後、「末吉さん、家でカフェを飲みましょう」と赤レンガ2階建ての家の一階サロンに案内されました。

登り窯陶芸をするために日本を離れた動機は何でしたか? と美恵子さんにたずねたら、カフェを飲みながら、名古屋で看護婦長をしていたが陶芸をする夢を捨てきれず、また諦めることが出来ず、陶芸をしていた夫と共にブラジルに行くことにしたとプライベートな歴史を語ってくれました。

他の動機は何でしたかと聞くと…日本ではユーカリが手に入らなくなる、また手に入ったにせよ値段が跳ね上がり、いずれ陶芸はできなくなるだろう、それを考えると好きな陶芸をするために日本を出てブラジルに行くことにしたと、しみじみと語ってくれました。美恵子さんは私と同じ団塊世代で同じ歳ということもあり、彼女の気持ちがよくわかる気がしました。

日本を離れブラジルで陶芸をする、陶芸家として生きると決めるのには、ポルトガルから来日して陶芸の修行をしていたRobertoの存在も大きかったようです。陶芸を通して良い友達になっていたRobertoにブラジル行きのことを話したら、「俺も連れていってほしい」と告げられたそうです。Robertoもブラジルに行きたかったそうです。

そこでRobertoに、知人もいない見知らぬ世界、何が起こるか、また陶芸する街に辿り着けるか、分からないけど日本に戻らない覚悟で行く、と話したら、笑いながら、自分は友達もいない日本に来たけれど美恵子さん夫妻と知り合いになったことで道が拓けたと話してくれたそうです。ブラジルはポルトガル語、私の国の言葉、言葉のことは心配することない、俺に任せろと、逆に励まされた、と。

このことも美恵子さん夫婦の背中を押して、揺らいでいた心が勇気と自信に変わったということでしょうか。美恵子さん夫妻はスーツケース2個、Robertoは一個と、最小限必要なものを入れ、空路でサンパウロへ飛び立つ…。

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末永さんと登り窯(画像提供/末吉業幸)

――もう一人の女性陶芸家・末永さんとはいつ知り合いになりましたか?

「そうですね、美恵子さんと知り合いになったのはたしか、1984年。一年後の1985年だったと記憶しています。私は1977年に東京からサンパウロに移り住みましたが末永さんは一年後の1978年です。末永さんは益子ですでに陶芸家の道を歩んでいましたがダンナがブラジルのCunhaから益子に陶芸修行に来ていたので知り合い、ユーカリの心配がないCunhaに移り住むことにしたと工房のカフェサロンで話してくれました。益子を出る前に結婚をすることは決めていたらしいです」(末吉)

――美恵子さん夫妻とRobertoさんはサンパウロに着いてからどうなりましたか?

「ある一世日本人から避暑地で有名なカンポスジョルドンを知らされたので行ってみましたが、何しろ交通が不便、すぐ諦めました。ある人がアチバイアで陶芸をしている日本人男性がいると教えてくれたので会いに行くことにしました。日系コロニアでは名前が知られた陶芸家で、サンパウロの陶芸に詳しい方。彼がCunhaに日本人はいないが小さい赤レンガ工場があるので、陶芸に使う粘土があるから陶芸が出来るのではと、アドバイスしてくれました」(美恵子さん)

「翌日バスで出かけ、街を一回りしましたが、外から来た人には冷たい土地柄、何しろあのジャポネーズ、何しに来たのかと相手にしてくれません。それでも小さな赤レンガ工場を訪ね、粘土について情報を集めました。どうやら、陶芸はできるらしい、しかし、日本人がいないCunhaで陶芸をしていけるか、見ず知らずの土地で陶芸で生きていけるか、決断はできませんでした。また所持金も減り少なくなっていました」(同)

「サンパウロのホテルに戻りましたが、他を探す余裕がありません。その窮地を救ってくれたのが市長でした。“体育館がある、陶芸ができるまで何時までも住んでいいと”、なんともうれしい助け舟の一言で、Cunhaに骨を埋める、そう決めたとき日本から出たことが正しかったと改めて思いました」(同)

約5ヵ月体育館で寝泊まりし、陶芸が出来る登り窯と宿泊兼作業小屋をつくり、日本を出てから6ヵ月後に初釜開きが出来たと、美恵子さんはカフェを飲みながら話してくれました。

しかしそこで難題が。旦那はここでは陶芸はできない、生きていけないと日本に帰り、美恵子さんは一人残される身になりました。看護婦長に今さら戻る気持ちもないし、陶芸を捨てる気持ちにもなれない、さてどうするか。

一晩考え辿り着いた結論がCunhaに踏みとどまり、陶芸で身を立てる、30代半ばの女性が友達もいない見知らぬ小さな村クーニアで一人で生きていく…まさに驚くべき決断ですね。

美恵子さんは、“末吉さん、君ならどうしたか”とは聞かなかったが、問われたら美恵子さんのように踏みとどまる結論に辿り着けたか、なんとも言えない難問ですね。

登り窯が出来、女性助手を一人雇い、作った陶芸品はCunhaで売れないから、リオ・デ・ジャネイロで行商をしながら生計を立てた。市長に助けられたが今度はリオ・デ・ジャネイロの商人に“つくったものを全部俺が買うからもつてこい”と励まされ、2度もブラジル人に助けられたそうです。

 ――益子からCunhaに移り住んだ末永さんはどうなりましたか?

「いい粘土はどこにあるか、陶芸に混ぜるうわぐすりの仕入れ先、5段登り窯をつくる作業員など、必要なことは彼女のダンナが知っていたから、順調に進んだようです。しかし陶芸に関しては益子で実積がある末永さんがダンナより格段上ですから、末永さんが登り窯陶芸を軌道に乗せたと言えるでしょう」(末吉)

――美恵子さん、末永さん、お二人の陶芸、どこが違い、どこが似ていると思いましたか?

「そうですね、美恵子さんはどちらかというと美術陶芸で量産はできないから、美術品として高く売る、末永さんは益子で美術陶芸+日常陶芸・暮らしの陶芸、量産の仕方、どうすれば売れるか、体験してきました。それと地元Cunha出身のダンナがいますから陶芸をする環境は整えられ恵まれていました。美恵子さんはどちらかというと不遇の環境から生まれた美術陶芸、末永さんは益子で得た陶芸のキャリアがありましたからそれをバネにし短期間に軌道に乗せたと言えますが、陶芸で身を立てる、そこには違いはなかったと思います。お二人は団塊の同世代、専門は違いますが生き方から学ぶとろがありましたね。異性ですが良き隣人がもてた、と」(末吉)                                                           

――貴方も同じ団塊世代の一人ですが二人に共通しているもの、学んだものは何ですか。

「Cunhaのためとか、何々のためは何一つ考えず、好きな陶芸をする、その結果が今のお二人の姿、それが今のCunhaということでしょうか。街の貯水池の歩道に陶芸展示館・陶芸学校をつくりました。ひたすら陶芸に打ち込むことで登山に例えると8合目に辿り着けたが地元の子供たちが貧困から抜け出し、ごく普通の暮らしをして欲しいと陶芸展示館・陶芸学校をつくりましたが、しかしお二人ともそれを語らない人柄でしたね」(末吉)

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末永さん作、大きな壺(画像提供/末吉業幸)

一休みし、陶芸品ができるまでの一連の工程をメモします。

トラックで粘土が運ばれてくる→粉砕機で細かくする→小石、ごみを取り除き工房作業室に収納→ろくろで作業できる分量に仕分け→水をかけ練り固める→ろくろでデザインに仕上げる→窯入れ準備作業→五段登り窯で一週間焼く→窯から取り出し綺麗に焼けたかチェック→工房に展示し販売する。末永さんの五段登り窯では3ヵ月毎に約2000点を焼いていました。月に600点の作成、陶芸は重労働との闘いです、と話していました。

朝7時頃に起床し、朝食を終えてから弟子に今日の仕事のスケジュールを伝え、工房に入るのが日々の日課。昼間の来客は弟子が応対、常連客または友人が来たときは美恵子さんの工房では美恵子さん、末永さんの工房では末永さんが応対。午前は8時~11時、昼間2時~夕方5時、または注文があるときは夜8時頃までろくろを回していると、美恵子さん、末永さんが話していました。

ある日、陶芸する楽しみはとは・・・言いませんでしたが、虹の七色カラー、さまざまな雲のかたち、植物のかたちを陶芸に転写する、ショールームに展示されている陶芸品を案内しながら陶芸品に語らせるしぐさが感じられました。ブラジル人女性弟子が描いたとおりの陶芸品に仕上がったとき、何とも言えない喜びだね…とポツリと語った言葉を聞いたとき、あ~そういうことかと…。

片足でろくろを踏み回しながら両手で練り固めた土を支えながら、指と工具で描いたデザインに仕上げていく。主婦と陶芸家を両立している生き方に同じ移住者として励まされました。

クーニアは半径200mの盆地の中心地に古い教会、役所、銀行、郵便局、ガリンペイロの時代のスーパーがあり、四方にガリンペイロ石畳の下り坂がある山岳街です。街の中心まで、美恵子さん、末永さんの工房からは歩いて20分。山岳の小さな街で陶芸で身を立てる、常人にはできない決断ですね。

ところでポルトガル人のRobertoはどうなったかというと…美恵子さん、末永さんは街のど真ん中に工房を作りましたがRobertoは街はずれの部落、10件ほどの家がある山の斜面に小さな登り釜をつくり、ホソボソの陶芸、言葉は通じるが陶芸に取り組む気迫は美恵子さん、末永さんが先を歩んでいました。

久し振りに訪ね、ドアーを開けると、イャ~、よく来たなぁ~と笑顔で迎えてくれました。Roberto、子供の誕生祝いに子供の洋服のプレゼントをもってきたと渡したら、ありがとう、と。顔を見ると気迫が薄れた感じがしました。ポルトガルに残した奥さんとは生き別れになったようでした。Robertoの工房はマタドール、ポルトガル語で殺し屋、部落の俗称が殺し屋、それを工房の名前にしたと話していました。ポルトガルに奥さんを残し日本で陶芸で自立し迎えるつもりだったができなかったこと、ブラジルで再起を考えていたが年齢には勝てなかった、そういうことでしょうか。

――美恵子さん、末永さんと知り合いになれたのは偶然でしたか。

「ピネイロスの台湾系中国飯店の常連でした。ある日店主から、長女の中学の授業料が一年滞納し、明日まで払わないと学校から出される、クーニアの土地を貴方のものにしていい、助けてくれと頼まれました。店は繁盛しているのにどうして滞納しているのか、不思議に思いながら土地を見ないで立て替えました。後でわかったのですがあちこちから金を借り、返さず裁判になっていることが分りました。以後中国人はすぐ信用しないことにしましたね(笑)」(末吉)

「立て替えた次の日曜日に出かけ土地を見に行くとクニーアから15㎞先の山奥にあるCOMPOS NOVOという僻地。小屋、土地はあるが支払い中の教会分譲地、ダマされたことがわかり苦労しました。騙されましたが美恵子さん、末永さんと友達になれたことで別壮に改造し、また農場を買い約20年週末休日に利用しました。別壮農牧場を手放すまでいろいろなトラブルがありましたがそれは省略します」(同)

「サンパウロから別壮農牧場まで片道250㎞、途中シュハスカリアでうまい肉を食べ、帰りにはトウモロコシで作られたアイスクリームを食べる、食道楽ドライブの旅を楽しみましたね。トラブルはありましたが水道工事職人、奥さんに農場別壮のカギを預け、約20年月に2回通い日本人がいない僻地で家では吸えない好きなパイプ煙草を吸いながら農作業を楽しむ自適悠々の週末を過ごしました」(同)

「カギを預けた夫婦は地元の小学校を出ただけでしたが誠実でバカ正直でしたね。スプーン、ホーク一本もなくなることはありませんでした。毎月管理費を払いまたクリスマスに冷蔵庫を買いプレゼントしました。ある日キッチンのテーブルの上にカネを忘れたことがありましたが奥さんが掃除のとき、見つけ返してくれました。自分のあやまちから偶然にお二人の女性陶芸家と知り合うことになりましたが、いい体験をしたと思っています」(同)

美恵子さんは、市民名誉賞が授与された後銀行で働いていたブラジル人を伴侶にし長男が生まれ、ようやく人並の暮らしができたと、ある日話してくれました。僻地の農場別壮は脅迫、また農場への不法侵入があいつぎ手放すことにした、と。手続きを終えた後美恵子さんの工房の近くのレストランで美恵子さんと伴侶にクーニアでラザーニア料理で昼食でもてなしたことがありました。

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末永さんの窯の薪(画像提供/末吉業幸)

――登り窯陶芸がクーニアを陶芸の街にし、避暑地に生まれ変わった理由は何でしたか?

「いい粘土、いいユーカリのマキが安く手に入ったことで、いい陶芸品をつくることができた、そういうことでしょうか。日本で“市長が単独で体育館を無料で提供する”、また“つくった陶芸品をすべて買うからもってこい”、と助け舟を出す人がいるかというと、そういうことは考えられませんがブラジルでは困っている人がいたら、手を差しのべ支える温かい文化が残されています。見知らぬクーニアの地で市長、リオ・デ・ジャネイロの商人に助けられた。ブラジル人のおおらかさ、懐の深さに助けられ、日本人陶芸家がひたすら陶芸に打ち込める環境が整えられたことで今のクーニアがある、そういうことでしょうか。日本とブラジルの文化の根元が違う、それがわかる実例ですね」(末吉)

「登り窯で陶芸を始めるまでクーニアに陶芸家はいませんでしたが、ジャポネーズが登り窯でいい陶芸品をつくっていることが少しずつ伝えられたことで、物珍しさに登り窯の見学者は増えたそうですが陶芸品は買わないで手ぶらで帰る人がいたと美恵子さんは笑いながら話していました。登り窯に便乗しガス釜、電気釜を使う国内外の陶芸家がクーニアに集まったことで陶芸の街として知られていくようになり、また日本食ブームが後押ししたとも言えるでしょう」(末吉)

「リベルダージで有田焼、益子焼が売られていたことで日本の陶芸品に興味を持つ人が増えたことで見学者が増えたとも言えます。1800~2200℃前後の高温で一週間焼き上げられ出来た陶芸品の美しさに圧倒され、また窯開きに一般の方々に案内また声をかけ来て頂きただの土がろくろで陶芸の型がつくられ、素焼きから陶芸品に仕上げられるまでの工程の説明を繰り返してきたことで登り窯陶芸の見学者・登り窯陶芸品を買う人が増えたこと、避暑を求め来る人が増えPousada(民宿)が50以上建てられ、海抜1100mの山岳農村に高級別壮がつくられたことで今のクーニアに生まれ変わったということでしょうか。窯開きにブラジリア、アルゼンチン国境のサンタカタリーナから車で来る人もいました」(末吉)

2025年に二人の女性陶芸家、ポルトガル人がクーニアで陶芸を始めて50年を迎え、市主催の記念行事が行われるとの風の便りもあります。コロナ前後にも三人にお会いしていないので、近郊を含め陶芸家が約35~50人ほどいたが、どうなったかわからないので訪ねてみたいと思っています。

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美恵子さん作、花瓶(画像提供/末吉業幸)

写真の花瓶は陶芸展示・出版を手伝ったお礼に美恵子さんから頂いたもの。末永さん登り窯段差階段に展示された陶芸品(コラム一番上の画像)、大きな壺(画像上から3番目)。コラムを書き終わる前に気が付いたこと、お二人は好きな陶芸で異国のブラジルを良き友に転化し、ブラジルとともに歩んでこられた、そう思いましたね。 

(文/末吉業幸)

※注1:高度成長期は一般的には「1950 年代の中頃に始まり1970 年代初頭に終わったというのが通説」(日本銀行)とされていますが、本原稿では筆者・末吉さんの実体験に基づく景況感で記しています。

著者紹介

Nariyuki Sueyoshi 末吉業幸

Nariyuki Sueyoshi 末吉業幸
沖縄県名護市生まれの団塊世代。生まれ故郷で18年、東京で約10年暮らし、29歳の時に、新天地ブラジルへ東京JICA工業移住者として移住。2024年9月に47年を迎えます。妻は日系2世で同じ職業。

移住一年後に、昼間サラリーマンとして働く傍ら、夜はファリアリマ通りに家電販売修理店舗を設立。以後コンピユ―ターコンサルタント、本業のほかにも、セラード農業への個人投資、日系コロニアのボラティアも経験しました。ジョアン・フィゲレード大統領の補佐官(日系第一号の大統領補佐官)と知友になれたことで、公的交友の道へ歩む幸運に恵まれたとも言えます。

信条の第1は健康であること。第2は貧乏を寄せ付けない財産を持つこと。第3は良き隣人を持つこと。第4が仕事の成功。第5が心を豊かにする趣味をもつこと。シンプルに暮らし、自由に生きてきた、どこにでもある生き方。これからも同じ生き方をしていくつもり。
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