2018年 09月 23日 11:15
今回は、わたしがどうやってリオでパゴーヂのショウの実現に至ったか、そこへの道のりを書こうと思う。
2017年12月、舞台はLA。わたしはベニスビーチでひとりのエキゾチックな美女に出会った。
彼女とは他愛のないおしゃべりで時間を過ごしただけだったが、彼女は「リオに行けば歌を助けてくれる人がいるかもね」と謎の言葉をわたしに残した。その言葉が妙に心に残った。
そして舞台はリオへ。
ある日、超有名なブロコ「カシッキ・ヂ・ハモス」の日曜日のパゴーヂに友人と一緒にでかけた。ここの日曜日はまるでパゴーヂ祭り、パゴーヂの嵐のようだった。ステージの近くで歌い、楽しく談笑をしているわたしたちに、ステージと観客席の柵越しに、ある白髪の男性がなにかを一生懸命呟いていた。その男性はまるでモーゼが、かの奇跡の海で見たであろう光のように輝いていた。彼はわたしたちに話があるに違いないと確信し、近寄った。
「カシッキ・ヂ・ハモスにあるタマリネイラ(タマリンドというフルーツがなる木)に祈りを捧げると願いが叶うだろう」と彼は言った。
「またリオに戻って来れますように」
わたしたちはタマリネイラにお祈りをした。
実はこの男性は、「カシッキ・ヂ・ハモス」のヂレトールだった。今思えばあのヂレトールは、わたしの心とその周りがまるでスケルトンでできていたかのように、何かしらの願いを抱いていたのを見透かしていた。ほとんど魔法使いだった。
日本に帰り、なにをどうすればいいのかまったくわからないかったが、とにかくリオのパゴーヂのオーディションを受けることにした。
陽気な日本人女性を装い、いくつかのパゴーヂになんとかコンタクトをとって、ムービーでオーディションを受けられるか、聞いてみた。やがて歌わせてもらえそうなところが見つかったが、歌ってよいという許可が下りたものの、そこから全く話が先に進まなかった。毎日コロコロと変わる返信内容とのメールのやり取りに、頭がおかしくなりそうになった。
旅行の手配など、やらなくてはならないことも山積みだったので、のんきになれなくなってきた。どうしても現地で歌える保証が欲しかったが、そんな保証なんて最初から存在しないのも知っていた。
陽気な日本人女性のフリはやめて、気迫を込めたメールを送った数日後、ひとつのポエムが届いた。
「夜明けはすべてのことに2度目のチャンスがある最大の証です。決して諦めないでください…etc」
リオのパゴーヂはオーディションの落選通知がポエムなのだろうか? パゴーヂがエモーショナルな音楽だから? 未だに謎だ。
正直なところ、リオのパゴーヂへの参加は、受かればラッキーくらいに思っていたので、ポエムのことを含め、友達のジョゼーにこれ迄のことを話した。
すると彼は、歌えるところを探してあげるから、ビデオを送ってと言ってくれた。幸いにもマドゥレーラで歌えるところが本当に見つかった。
そして2018年のGW。舞台はマドゥレーラ。
着いたその日にマドゥレーラのパゴーヂに行って歌った。
時差ボケと疲れの上に、ブラジルで歌うのが初めてだったため緊張もしていたし、コンディションは完ぺきとはいえなかったが、歌いおわったあと、驚いたことにたくさんの人にうちでも歌って! と声をかけてもらった。
中にはその場でオーガナイザーに電話してくれ、出演を決めてくれる人もいた。この方法でチア・ドッカへの出演も決まった。旅行で来ていたため、あまり時間もなかったが、多くのことをチームと呼べる仲間たちが手伝って決めてくれた。
こうして、次から次へと歌う機会がやってきた。
リオ屈指の有名パゴーヂ、ヘナセンサクラブでも歌わせてもらった。
ヘナセンサは月曜日なのに中野サンプラザのキャパ×1.3くらいの人が集まっていて、緊張で震え怖くなり、今日は歌いたくないと言った。ジョゼーに怒られたので恐る恐る歌ったが、歌ってよかった。フェイラ(市場)でも、フェイラの向かいの隣のバーのパゴーヂでも歌った。そして最後はパゴーヂの聖地の一つチア・ドッカだ。
どこも、日本人が歌うのは初めてだったという。
まさにタマリネイラの奇跡だと思う。
いまでも出会ったすべて人の顔が思い出される。
有名なファンキ・カリオカの歌手を妹に持ち、エザウタサンバのコンポーザーを親友に持つ音楽業界ど真中のマルセロは、よくドライバーをしてくれた。
チームへの言葉は、もはやわたしのポルトガル語では表現できない。全ての人、出来事、全部にありがとう。
少しさみしいけれど、タマリネイラの奇跡の物語はひとまずここでおしまい。読んでくれたみなさんにもお礼をいいたい。
そして舞台は東京。2018年9月。
わたしが歌うことができた舞台と、自分の実力が乖離していることは、じゅうぶんわかっている。ギャップを少しでも埋めるべくトレーニングにはげんでいる。
まだ自分の目標には達していないが、再び戻ることを許されたステージがあるので、修練を重ねて時期を見てまたリオで歌う予定だ。
オリジナル曲も鋭意制作中だ。“自分なりのブラジル音楽”を提案して、それを形にしてもらった曲をパゴーヂで既に披露したことがある。自分でポルトガル語のオリジナル曲とサンバを作ってブラジルで歌うのが、わたしの次の挑戦だ。日本人が創るブラジル音楽がどんな仕上がりになるのか、とてもワクワクしている。
凄くポップに仕上げる予定なので、一人でも多くのブラジル人に聞いてもらいたい。歌詞はすべてポルトガル語だが、日本の皆様にも聞いてもらえたら嬉しい。
どうぞ、よろしくお願いします!
(文・写真上と下/Viviane Yoshimi、写真中/Anna Galazans/Samba do Nem)
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著者紹介
ブラジル音楽をひととおり通り、いまでもいろんなジャンルのブラジル音楽を聴き続ける、ブラジル音楽愛好家のなかのラフレシア。リスナーから歌手になり、2018年春に本場リオ・デ・ジャネイロへPagode修業の旅に出る。リオでは地元でも屈指の老舗Renacemça club,Pagode da Tia Docaを含む、全5箇所をまわりハードすぎる武者修行を終え、いまもトレーニング中。平行してオリジナル曲も絶賛作成中。Instagram@vivianeyoshimi