ブラジルの定番の軽食「パステウ」を広めたのは日本人移民だった!?
2021年 12月 5日
「第二次世界大戦中、1940年代、我々ブラジル人は日本人移民との間に問題を抱えていました。当時ドイツと同盟国だったことから、日本人移民はこの国で居づらい立場となったからです。そこでに多くの日本人は、中国人のふりをしなければならなかったのです」(マルシア・ユキエ・イケモト教授)
田舎に引っ込んで隠れ暮らすことを選ばなかった日本人の中には、都市部で、中国人と思われるためと、収入を得るために、ブラジル流の餃子~春巻きであるパステウを商売にした人たちが多かったという。当時は主にランショネッチ(軽食バー~定食屋)で出されていたという。
他のアジア料理と異なり、パステウはブラジル人に馴染みのある材料で作られたため、ブラジルで広く受け入れられた。
「日本人移民が入植するときの玄関口でもあるサントス市の沿岸部からはじまり、サンパウロ市にもひろがりました。1950年代にはリオデジャネイロ市、ベロオリゾンチ市にも伝わり、60年代には南部にも広がりました」(マルシア・ユキエ・イケモト教授)
初期のパステウの具は、牛肉と豚肉が混ざったものだったが、次第に、よりブラジル人が好む具へと変化していったという。チーズを具に入れるパステウは、ミナスジェライス州で生まれたと考えられるという。今日ではパステウはブラジル全国に定着して、スイーツの具まである。
青空市でのゴールデンコンビの、もう一方のサトウキビジュースの歴史はさらに古い。サトウキビの生産は1516年には行われており、サトウキビジュースは製糖農園で奴隷として働かされていた黒人たちによって消費されていたという。
「こうした農園では、奴隷として働かされていた黒人たちが消費していました。彼らの重要なエネルギー源だったと考えられています」(アニェンビー・モルンビー大学ガストロノミー学科マウリシオ・ロペス教授)
「飲み物は、何時間もかけて行われていたサトウキビの搾汁作業の間に、製糖農園主の手で配給されました」(サンパウロ大学奴隷制社会史専門のマリア・エレナ教授)
やがてサトウキビジュースは社会に広まり、一般的に広く飲まれるようになっていった。
そんなサトウキビジュースも、ランショネッチから誕生したパステウも、人々の生活に浸透するにつれ、売り手と顧客がより親密な関係を持つ青空市でも売られるようになっていったと、 マルシア・ユキエ・イケモト教授は指摘する。
マウリシオ・ロペス教授によると、そのうち、この組み合わせが美味しいと誰かが気づき、サトウキビジュースとパステウを同時に消費する習慣が出来ていったと いう。
(文/カシャッサ麻生)