【コラム:ブラジルとともに 3】虚従実帰

2024年 10月 4日

これから書く方は日本経済新聞に日本の人材スカウトの草分けとして紹介された江島優です。

昭和32(1957)年に大学を卒業、同年5月1日にブラジルへ出発。サンパウロで3年間の原生林開拓で働き、味の素の営業マンとして米国で学ぶ学費を稼ぎアメリカへ渡航。カリフォルニア大学、ロスアンゼルスで人材スカウトを学び、昭和42(1967)年5月1日に帰国した江島さんの実体験です。

世の中にはさまざな先見の目をもつ人がおり、そういう人に出会うことで実体験から新しい生き方を学ぶことが出来る。

10年前の帰国時のこと。ある日、早稲田大学教授から、若い時にブラジルに出稼ぎに出かけ、今は日本の人材スカウトの草分けになった方がおり、「その人が末吉さんに会いたいから、都合を聞いてくれ」と頼まれたがどうか、と聞かれた。ブラジルの経済の最新状況が知りたいらしい、と教授は伝えてくれた。

お会いしたことがないので一人では話しにくいので、ブラジルから日本へエタノール輸入の相談を受けている社長に同行してもらったほうがいいと話し、懇談を承諾した。

午後4時のアポイントでOKし、地下鉄とタクシーを乗り継ぎ港区の会社に着いた。

社長室に案内され中に入ると「いや~遠いブラジルからご苦労様と丁寧に話しかけられた」。初対面とは思われない親しみがある笑顔で迎えてくれたので緊張がほぐれた。

名刺を交換しソファーに座ると、サンパウロ新聞の切り抜きを取り出しながらブラジルでのことを話し始めた。

虚従実帰が座右の言葉。22歳の時、墨で大きく書いた掛け軸を今でも持っていると話してくれました。「虚従実帰」とは、虚(むなし)しく従(ゆ)きて、実(みの)りて帰る。裸一貫で従くが必ず実って帰ってくる、という意味。

振り返ればここ一番というときは何時も、この四文字に支えられてきたそうです。此の方は永住の目的で従(ゆく)のではないが、ブラジルという共通のものがあることで、身近な人という感じがしました。

大学を卒業したばかりだったが渡米したくてしかたがなかった。マッカーサーに憧れ、彼のような偉大な男を生んだアメリカをこの目でみたかった。自分を試したかった。自分を試したかったが渡航のカネがない。日本政府がブラジルの原生林開拓団を募集している記事を見てすぐ応募する。

3年間原生林開拓のために働くのと引き換えに、片道の船賃と食事代、あわせて12万円5千円をだしてもらえた。当時の大学卒の月給が7千円前後の時代、12万円といえば大金、すぐ飛びついた。

掛け軸に10年間の期限を付けたのは、猛反対した両親を説得したかっただけではない。「10年後には必ず実って戻ってくるんだ」と自分に言い聞かせた。

全国各地から家族移民を中心に750人がブラジル丸に乗り込んだという。「中には私のように単身の男性が20人ほどおり、到着する55日間、夢や野心を語り合った」と話してくれた。

最初の仕事はコーヒーや綿の栽培と収穫、時には農牧場で牧畜の世話もやった。毎朝5時に起き、夕陽が沈むまで働いたが、いつこうにカネがたまらにまま3年間が過ぎすぎてしまった。

開拓の任務を終え自由の身になり、身ひとつでサンパウロに出た。運良く当時進出したばかりの味の素が営業マンの求人をしていたので、現地法人で雇ってもらうことになる。

サンパウロで味の素の商品をフォルクスワーゲンのコンビ(ワーゲンバス)に積みアマゾンのマナウスに行く途中の見知らぬ街で行商。また、アマゾンの上流を目指し何日も船に乗ったり、超距離バスやジープで30時間かけて移動し行商しながら働き歩いた。そうやって稼いで、渡米できるまで7年かかってしまった。

サンパウロに味の素輸入販売会社が設立されたのが1956年、江島さんが日本を出たのが設立1年後の1957年。開拓契約の三年が終わり、自由の身になったのが1960年。筆者の父が亡くなったのが1962年で、中学2年のとき。私が少学6年か中1のときに江島さんはサンパウロにいたことになります。

アマゾン開拓史について調べていた筆者にとって、江島優さんとの出会いは知られていなかった史実を本人から聞く貴重な体験になり、また、その生き方から多く学ぶことができました。

人材スカウト業を知ったのは、渡米し、ロサンゼルスで経営学を学んでいる時だった。街を歩くと「A社からB氏を引き抜いた」と堂々と話している人がいた。日本では終身雇用が徹低しており、何か悪いことをしなければ転職などめったにしない。「人をスカウトすることなどあり得るのか」と耳を疑った。1960年代前半のことである。

ロサンゼルスにはすでに「へッドハンター」と呼ばれる人材スカウト業者が沢山あった。ハントする対象を管理職や学者に限る「エゼクチィーブサーチ」が乱立していた。

このビジネスの仕組みがどうしても知りたくて、現地の業者を何軒も訪ね基本教えてもらい、あとは雑誌や新聞で情報を収集した。

基本的な仕組みは企業からの依頼で求人条件にあった人を探しスカウトする。ふだんから世界の学者の研究成果や業界で有名な経営管理者の人材データーを集めておき、依頼者の求人に合う人を調査し探すという。

料金は『リティナー方式』と言って、依頼人は依頼時に大半を払い、業者は雇用の成功・不成功にかかわらず報酬を受け取る。事前にもらった費用で十分に調査し、スカウトの成功率を高める。

米国に元々スカウト業があったわけではない。かつては米国の多くの企業が終身雇用を実施していたと言う。しかし1930年代の大恐慌を契機に多くの大企業が大規模なレイオフ「一時解雇」を実施、終身雇用の仕組みが徐々に崩れていったとのこと。

やがて社内に有能な人材がいなければ外部から適任者を引き抜く、それが当たり前になった。

「これは将来日本でも必ず通用するようになる」と予感がしたという。そうこうしているうちに、ブラジル開拓団として日本を出るときに誓った「10年に実って帰国する」という目標期限が近付いた。

学費を稼ぐためにせいいっぱいだったためカネはたまらなかったが、米国流の人材スカウト業のノウハウを習得していた。1967年(昭和42年)春に32歳で約束通り帰国する。

昭和42年と言えば筆者が高校を卒業した年。話を聞きながら感銘を受けるとともに、いい人と知り合いになれたことに感謝しました。

懇談が終わる前に、江島さんが「奥多摩で日曜農業をしている」と、ポツリと話した言葉を耳にしたとき、若い時に開墾・農牧場でがむしゃらに働いてきたことを思い出しながら話している感じがした。

懇談を終え社長室に置かれている赤電話に気付き、専務に「あの赤電話は何ですか」と聞いたら、「首相官邸直通の電話です」と答えられ、ビックリした。

この方、江島優さんは歴代首相(首相官邸)の労働委員会の顔をもち、何時でも首相と電話できる身分だが、そういう方とは思えないごく普通の方で誠実の人柄だった。

懇談後、旧赤坂ホテルでフランス料理の夕食のもてなしを受け、ホテルの玄関まで丁寧に見送って下さった江島さんが手配してくれたタクシーに乗り、港区虎ノ門を後にした。

タクシーから降り、地下鉄、JR山の手線に乗り継ぎ上野駅からホテルに着いた。風呂に入り、上野警察の隣りにあるラーメン屋で腹ごしらえし、好きなパイプ煙草を吸いながら、江島さんとの懇談を振り帰ってみた。

これまでお会いした方の中でも、とてつもなくダイナミック、壮大な生き方をなされてきた方だ。飾らずごく普通の人のように思えるが、話しているうちに内に秘めるものは常人ではないことが感じられた。

私が羽田空港から永住の国ブラジルのサンパウロに向かい飛び立ったのが1977年9月2日、サンパウロ市内のコンゴニア空港に着いたのが9月4日。

羽田を飛び立つ機中で10年後には沖縄に会社をつくる目標を立てた。江島さんとは違うが自分がブラジルへ行くのは永住のため。日本とブラジルの2ヵ国で仕事・暮らしの拠点を作り、自由に行き交うことを生きがい、または目標にしている。その道半ばで江島さんと知り得たことは大きな喜び、また、励みになった。

話題は横道に入るが、ある要件でサンパウロのリベルダージ通りにあるポルトガルクラブを訪ねたときのこと。

会館の床は豪華な黒と白のタイル、講堂の中央には大きなシャンデリアがあり、歴史ある移民クラブの感じがした。

母国ポルトガルとの交流について聞いてみた。グループを作り母国を訪ねる、そういうことはしていないという。母国の建国記念日、ブラジルの独立記念日にクラブ会館に集まり、母国の踊り、食事を楽しむ行事、また新年会をしているとお話してくれた。

パウリスタ通りにあるイタリア移民のローマクラブもポルトガルクラブと同じような活動で、変わったことはなかった。

両クラブとも母国に留学生を派遣し、子弟に母国の文化を学ばせていると役員の方が話してくれた。

どうしてポルトガルクラブ、ローマクラブを訪ねたかと言うと、田舎にいた頃名護の片田舎の我が町にポルトガル人13人ほどが訪ね、男女ともにポルトガル民族衣装の赤・黄色・青色を身にまとい、約一時間半琉米文化会館でポルトガル民族ダンスを披露してくれたことを思いだしたからだ。

遠いヨーロッパから何のためにきたのか、その時はわからなかったが、ブラジルに移住し、ポルトガルクラブ、ローマクラブを訪ねたことで謎が解け、わかった気がした。

永住とはどういうことか。普通の暮らしを外に広げて行くこと、そしてその延長、と考えればいい、と。暮らしを日本から外国に移す、それが移住だと、自分なりに決めた。

ポルトガル、イタリアは外国に移住しても内と外を分け隔てることなく、普通のこととして受け入れているが、日本は外国に移住した人を元日本人、日本に住んでいる人を日本人と分けているのは、国の生い立ちが違うことから来ていることがわかった。

江島さんが語った「今私があるのはブラジルのおかげです」という言葉、その意味は、ポルトガル人、イタリア人と同じように、移住を普通の暮らしの延長と考えているからだろうか。ブラジルに移住したことで、日本では到底会えない方々とお会いできたのは、日本の内と外を分ける文化のおかげかもしれない。

ある日、海外日系人大会のおりに、会場からマイクロバスに乗り、5人で首相官邸を表敬したことがあった。後藤田正晴官房長官が官邸玄関で出迎えてくれた。海部首相は会議が延びるという連絡があり、カフェーを飲みながら約25分待つたが何時会議が終わるか、わからないということで残念だが会わずに官邸を後にした。官邸を出る前に後藤田官房長から歴代首相の色紙を記念に数枚頂いた。

海部俊樹の色紙には「活龍不滞水」と書かれていた。

その後、ある所用で外務省大臣官房室を訪ねる機会に恵まれた。またサントス港でのブラジル移民上陸建立像序幕セレモニー式典会場で参列された橋本龍太郎とお会いできた。除幕式の記念撮影をしたが県人会に戻る途中の歩道でトラロンバ(ひったくり)にカメラをカッパラわれるハプニングがあり、記念写真は残っていない。ブラジル移民記念式典のため來伯された小渕恵三と式典会場でお目にかかれる好運にも恵まれた。

当時の首相は政治哲学・政治理念・風格があり、また何よりも一国の治政を成し遂げる風貌があったが今の政治家は言葉にもて遊ばれている人が多いように見える。日米対等、日米同盟を見直すべきと言うが、米国のおかげで今の日本があること、お忘れのようだ。それは財界にも言える。

対等・同盟と言わず兄弟国が似合う国同士、国を治政するもの、もう少し知恵ある政治をすること、望みたいものですね。最近殺人事件があまりにも多すぎる日本、政治家は世の中が疲弊していることに目をとめ、国民が安心して暮らしていける社会にしていく、これは政治の力でしか成し遂げられないこと、内需・外交も大切ですが国民の命を守ることに政治のシフトを移してもらいたいと思います。

話を江島優に戻します。

開墾で働いていたとき、きつい仕事が終わった後に安モノのピンガ(カシャッサ)でカイピィリーニアをつくり飲んだと話していた江島さん。カシャッサを手土産に再び虎ノ門の会社を訪れ、食をともにしながら繁栄の途上にあるブラジルのことについて話し合いたかった。

初対面で「今私があるのはブラジルのおかげです」と静かな声でしみじみに話された言葉に、ブラジルを愛する人柄、実業家、また一人の日本人としての自覚が感じられた。また会う機会があれば、同じブラジル丸で夢と野望を語り合った人がおられることをお伝えしたかった。きっと喜ばれたのではないかと思う。

江島さん招待された二つ目の理由は、ブラジルに「人材スカウト会社を設立したいが、どうか」という話だった。

ブラジルの企業規模は人材スカウトを受け入れる環境にない、またスカウトがブラジル企業風土になじまないのではないかと答えたところ、「あ~、そうか」と話された。その一年後に江島さんはロンドンに海外初めての会社を設立し、成功されたと早稲田大の教授が伝えてくれた。

パイプ煙草愛好家の一人として、マッカーサーが機内から降りるタラップに立ちパイプ煙草をくわえ立つている軍服姿はカッコいいね・・・。マッカーサーに憧れた青年が渡航し見たアメリカはどういった国だったのか、聞きたかったが江島さんが亡くなられ、聞けなくなった。夢にも浮かんでこなかった代々木公園でのFestival Brasil、天国でピンガを飲みながら微笑んでいる姿を雲が伝えてくれた。

1960年、26歳の日本の青年がフォルクスワーゲンのコンビに味の素を積み南米大陸の大西洋海岸の街を行商しながらベレンに辿り着き、ベレンから船でマナウスに行き、コンビからジープに乗り換え何日もかけて、アマゾンで商いをした。味の素を知らない東北伯、アマゾンで売るのに、大変な苦労したと話していた。

しかもポルトガル語での普通会話に不自由の身でありながら、アメリカで学ぶために、どんなにつらくても行商を成し遂げた熱意と行動力に多く学んだ。

今はサンパウロからマナウスまで南北大陸横断BR364で3881km、56時間で行けるが1960年代にはなかった。マッカーサーに憧れ、渡航費がないから、ブラジルのサントス近郊の原生林開墾の出稼ぎに応募、稼いだカネでカリフォルニア大で経営学を学ぶ、またロサンゼルスで働きながら人材スカウトを学ぶ向学心、今では考えられないことをしてきた偉人。

フォルクルスワーゲンのコンビをバックにした写真が載ったサンパウロ新聞を江島さんから頂いたが、見つからなかった。探し別の機会に紹介したい。

(文/末吉業幸)

著者紹介

Nariyuki Sueyoshi 末吉業幸

Nariyuki Sueyoshi 末吉業幸
沖縄県名護市生まれの団塊世代。生まれ故郷で18年、東京で約10年暮らし、29歳の時に、新天地ブラジルへ東京JICA工業移住者として移住。2024年9月に47年を迎えます。妻は日系2世で同じ職業。

移住一年後に、昼間サラリーマンとして働く傍ら、夜はファリアリマ通りに家電販売修理店舗を設立。以後コンピユ―ターコンサルタント、本業のほかにも、セラード農業への個人投資、日系コロニアのボラティアも経験しました。ジョアン・フィゲレード大統領の補佐官(日系第一号の大統領補佐官)と知友になれたことで、公的交友の道へ歩む幸運に恵まれたとも言えます。

信条の第1は健康であること。第2は貧乏を寄せ付けない財産を持つこと。第3は良き隣人を持つこと。第4が仕事の成功。第5が心を豊かにする趣味をもつこと。シンプルに暮らし、自由に生きてきた、どこにでもある生き方。これからも同じ生き方をしていくつもり。
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