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カーニバルに響く、“その後の仁義なき戦い”にも屈しないアフロヘギのソウル

アフロヘギ

NGO団体「アフロヘギ文化グループ」が結成されたのは1993年のこと。創設者はジョゼー・ジュニオール。すべてのはじまりは、民族や社会階層が異なる者同士に大きな壁が存在することを痛感していたジョゼーがはじめたパーティだった。

90年代初頭、ジョゼーは、当時「ブラジルのボスニア」とも呼ばれ、リオでも最も危険な場所のひとつと言われていたファヴェーラ、ヴィガーリオ・ジェラウで、あらゆる人が参加可能なファンキやレゲエのパーティを始めた。これがジョゼーの社会企業家としての活動の第一歩となった。

パーティを通じて、異なる階層や人種の間で相互理解が進まないのは、ブラジルの黒人文化を正しく伝えるメディアが存在しないためだと感じたジョゼーは、1993年1月21日、「アフロヘギ新聞」を創刊した。新聞の発行元は「アフロヘギ文化グループ」と記された。

ジョゼーは新聞を通じて、ファヴェーラで生活するアフリカ系の人たちが誇りをもって生きていける環境を作ることで、ストリートから犯罪を無くすことをめざした。この新聞はヴィガーリオ・ジェラウだけでなくカンタガロなど他のファヴェーラにも配布された。

ところがこの年(1993年)8月29日、ヴィガーリオ・ジェラウで、女性6名、青少年2名を含む地域住民21名が警官に虐殺される事件が発生する。前日に同地区にあるカトレー・ド・ホッシャ広場で麻薬密売組織構成員と思われる何者かに警官が襲撃され、4名が殺害された事件への報復だとされているが、犠牲になった21名は、一般市民ばかりだった。

事件の一月後、ジョゼーは新たな取り組みをはじめた。アフロヘギ文化グループの活動を、メディアだけではなく実際に行動する形にすることを決意。ヴィガーリオ・ジェラウの青少年たちに向けてダンスや音楽のワークショップを行い、彼らが自分自身の手で自分の未来を切り開ける道を作りはじめた。

虐殺事件の被害者の家族でもあったアンデルソン・サーも、アフロヘギ文化グループの活動に参加して道を切り開いたヴィガーリオ・ジェラウの住人の一人。ワークショップを通じて彼を中心に結成されたのが、ヒップホップクルーのバンダ・アフロヘギだ。

カエターノ・ヴェローゾやヘジーナ・カゼーが後見人も務めるバンダ・アフロヘギの誕生のいきさつは、映画「ファヴェーラの丘(Favela Rising)」に詳しい(次ページへつづく)。

(文/麻生雅人、写真/Raphael Dias/Riotur)

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