ブラジルで、元ストリートチルドレンだった男性が最高裁判所の弁護士に
2015年 10月 13日「彼女はノーと言いました。『あなたは私の息子。あなたは私と一緒にいるのよ』と言って聞きませんでした。何日かかけて彼女の考えが変わるまで続けました。ある日、なぜかはわからないけど、彼女は朝起きて言いました。『それで、どこに行くの?』と」
二人の母はついに顔を合わせ、養子縁組について話したという。
「今に至るまで二人の関係は良好です。生みの母は養母を尊敬し、すごく感謝しています。今は連絡を取り合ってはいませんが」
イズマエウさんはブラジリア市内のアーザ・スウ地区で新しい生活を始めた。しかし、ほどなくして新しい生活がもたらしたネガティブな面に気が付き始めた。
「僕が生まれたサマンバイアでは、好むと好まざるとにかかわらず周りは自分と同様の生活をしていた人ばかりだったので、偏見にさらされることはありませんでした」
しかしアーザ・スウ地区は違った。あらゆるところ、教師や監視官、近所の人、子供たちから悪意に満ちた言葉を聞いたとイズマエウさんは語る。
「のちに僕は自分が唯一の黒人、という学校で勉強をすることになりましたが、1年半、勉強が遅れていたので自分よりも小さい子供たちに交じって授業を受けることになりました。僕は偏見の中をやり過ごしていかなくてはなりませんでした。教師、友人などにも偏見はありました」
偏見は、あらゆる場面で感じたという。
「子供たちの中には単純に僕が黒人だという理由で遊びたくないと言うのです。あるグループの中で僕に『ホームレスの黒人の子供』を意味する『ピーヴァ』というあだ名をつけられていることを知りました」
イズマエウさんはそういったいじめに決して屈せず、自分が持っていた特別な立場についても理解していたという。逆境の中でも友達を作り、恋人もできた。でも勉強は好きになれなかったという。
「最初の1年半の成績は『中』でした。残りは2か月しかありませんでした。自分の過ちを悔いてもいなかったし、自分が人間として成長する役に立ったとも思っています。でも今思えば自分の状況をもっと利用できたはずでした」
イズマエウさんが勉強に身を入れ始めたのは19歳になってからだという(次ページへつづく)。
(文/余田庸子、写真/A Raça de Ismael/Reprodução)
イズマエウさんが暮らすことになったアザ・スウ地区の里親の家があるマンション